こ多分に漏れず親との関係は断絶だった。
特に親父とは水と油、別の生き物のような感覚さえあった。
かと言ってその頃は家庭内暴力などという言葉はなく、
住居は同じでも生活圏は全く違う異次元に住んでるもの同士
接点となるもの自体が存在しなかった。

元々、俺の中にパチンコやトラックの運転手は仮の姿という意識しかなかった。
長年生きる目的を探している俺にとって金を稼ぐ手段は何でもよかった。

そんな疑問を大人にぶつけても答えを返せる奴はいなかった。
猛烈サラリーマンで出世した親父でさえ答えられなかった。

大学を辞める辞めないの口論にしても
『何で大学行くのか?』『いい会社に就職するためだろ。』
『何でいい会社に就職するのか?』『いい生活するためだろ。』
『トラック乗っていい生活できれば、それでいいだろ。』
『バカっ!大学卒業までしてみっともない。』
『トラックの運転手がみっともないかぁ?社会で必要な仕事だろうがぁ!』
いつもこんな押し問答を繰り返していた。

だからある意味トラックに乗るのは親父に対する腹いせだったのかもしれない。
しかし、運転が3度の飯より好きで身体が鍛えられ、しかも給料もいいのだから、
俺の都合にはピッタシ合っていたのだ。

それ以上に、俺にとって仕事は何でもいいというわけではなかった。
一生を掛けて果たしたい仕事。その目的と働く意義が必要だったのだ。
目的が見えない以上、取り敢えず何でもいいから就職しとこう
という気にはなれなかった。

もし、就職してしまえば多分いまのこの気持ちは忘れ、
惰性に流されてそのうち諦める。それが怖かった。

それだったら何も考えずに働ける肉体労働の方が、
俺にとってはましだったのだ。

大学を卒業できず留年が決まった頃の俺は、
多分人生の中で一番荒れていただろう。
大学時代の友人は、社会に何の疑問を感じることもなく就職して行った。

中々人生が決まらない焦りからなのだろうか。
或いは欲しいものが得られない歯痒さなのだろうか。

俺は、相変わらずパチンコで生活費を稼ぎ、
夜は夜で暴走に拍車が掛かっていた。


中学までの俺は、腹を立てるとかいうこともなく、
どちらかと言えば目立たない子供だった。
しかし、高校に入って状況は一転した。
日常や人生、人間すべて何もかもが下らなく思え、
訳もわからず毎日毎日イライラが心の中に充満してくる。

理由もなく誰彼なしにその憤りを爆発させたい衝動に駆られ、
それを抑えるためになるべく人と関わらないようになった。

親や先生に不満があるだけでなく、学友さえも馬鹿馬鹿しく見えた。
会話と言えば『昨日どこの高校の奴らと喧嘩した。』とか、
童貞捨てただの、どこどこの女子高の子をナンパしただの。
何がそんなに面白いのか?何故そんな下らないことに懸命になれるのか?

何故だかわからないが、俺には全く理解できなかった。

ただ『俺らはもっと違うもののために生きてきたんじゃないのか?』
そんな疑問がいつも俺に付きまとっていた。

小学校の頃、親や先生や大人が言う理想が真実に見え疑わなかった。
しかし、中高生ともなるとそれが虚実に見えてくる。
少なくとも実際の現実とは矛盾していることがわかる。
しかしそれは、時間の経過と共に仕方のないことだと消化できる。

多分誰もが大人になる成長の過程で、一度は感じただろう心の葛藤。

『それは、なかったかのように忘れることが大人になる証なのか?』
その頃訪れる数多くの疑問に答えてくれる存在はなかった。
そのことに対する憤りだった。


俺は、決して不良ではなかった。
不良と呼ばれる吊るんでしか何もできない連中が嫌いだったから、、、。

できるだけ学校では揉めたくないと思っても、
放っておいてはくれない連中もいた。
結局殆どの不良グループの奴らと揉め喧嘩した。
それでも学校外で喧嘩する数と比べれば雲泥の差だった。

そのうち周りからは『狂犬』というあだ名まで付いていた。

そんな俺にも、裕二という親友と呼べる奴が一人だけいた。
タイマンでは滅多に負けることはなかったが、
元々一人だった俺が大勢にボコボコにされることも稀ではなかった。

高校2年のとき、雨の中血だらけになっている俺を
病院に連れて行ってくれたのが裕二だった。

彼は同じ歳だったが、中学校のときから家を出て夜の仕事やりながら
自活し高校も自力で卒業した。
だから17歳とは思えないほど世慣れしていて、
精神年齢も高く面倒見がよいので誰からも慕われていた。

性格は短気でもなく、血の気が多いわけでもない。
身体も俺のようにでかくはない。
身長175cmくらいでかなり細身だったから、
喧嘩したら間違いなく俺の方が勝つ。

しかし、度胸があるとか気が強いというより、神経がないのではと思えるほど、
いざとなったら相手がやくざでも引かない。それは、天性と言えるものだった。

彼が特別俺のよき理解者というわけではなく、
彼は既に人生の目的を見出していたように見えた。

それは俺が求めているものと同質ではなかったが、
他の奴らと比べ秀でて魅力的?生き様自体がカッコよかったのだ。

俺にパチンコの勝ち方も車の運転も全て教えてくれたが彼だった。


高校卒業し大学に入っても俺の状況は変らなかった。
生きる目的を見出せないまま、俺は毎日毎日一所懸命働いて
夜は夜で車を暴走させ考える時間を持たないようにするのが精一杯だった。

群れることを好まない俺は、その時々で一緒に走る奴らを選んでいたが、
裕二は20歳までに、500名以上の暴走族グループの頭になっていた。


たまに10年早く生まれていればと思うこともあった。
学生運動全盛期のころなら俺と同じ疑問を持ってる奴も多くいたかもしれない。

しかし、彼らの主張に根拠はなかったと俺は思う。
何故なら彼らが暴力をその手段にしたからに他ならない。
根拠のない主張は暴力に頼るしかない。
子供が主張するのに駄々をこねたり、
男が権力を誇示するために振るう家庭内暴力と同質のものだ。

俺の疑問に回答が与えられない憤りと、
車を暴走させることやキレる感情とは別物だった。
俺の憤りは社会や大人に向けられたものであっても、
それを正当化するために暴力を彼らに向けたわけではない。

暴走するのもキレて喧嘩するのも、
ある意味生きてることの確認みたいなものだった。
死と隣あわせにいることだけが生への充実を感じれる唯一の瞬間だったのだ。

それは、麻薬のようにやみ付きになるような、
一度知ったら辞められない喜びと興奮をもたらすのだ。


大学4年になると廻りにいる殆どが大人の振りをするようになっていた。
たまに行く大学でもスーツ姿が目立つ。
顔を合わせると目先の就職や面接の話しばかり。

『何故そこに行きたいのか?』と尋ねても答えられる奴はいなかった。
勘違いした奴が『給料がいいから』と答えるが、
それは俺の質問さえも理解していない証でしかなかった。


高校から感じていた社会のレールがはっきり見えた。
それが大人になる洗礼なのだろうか?
みんな何も疑問を感じず、まるでエスカレータにでも乗るかのように
社会のレールに乗っていく。
下で見送る俺を『何で乗らないの?』と
不思議そうに無表情に一度見つめただけで、
二度と振り返ることはなかった。

22歳にして、俺は社会からのリタイヤを決めていた。

と言っても、それはあくまでも幼い俺の生活環境の話でしかなかった。
実際トラックの運転手や肉体労働者であっても、
活き活きと生きている人は多くいたのだ。
転々と職場を変る度、多くの人に出会い、
それは、俺の血肉になっていった。

いまだ『俺は何のために生きるのか?何をするために生まれてきたのか?』
何の回答も見出せないまま憤りと焦りが俺の心を占めていた。

そんな中、出会いは突然訪れた。

トラック乗りをしばらく辞め、パチンコで生活していた俺は、
体力も充実し時間にも余裕を持っていた。

特にその日は、いつになく気持ちのいい朝を迎え。気分も晴れ晴れだった。

穏やかな木漏れ日が降り注ぐ初夏の午後、
以前バイトしていた駅前のガソリンスタンドで、
俺は勝手知ったる我が家のように勝手にリフトを使い車をいじっていた。

車の下に潜り込み、前の日の走りで外れかかった
US11のマフラーを修理していた。

そのころ乗っていた俺のシルビアUS11の改造車は、
ベースのFJ20エンジンを2100ccにボアアップし、
ターボはノーマル、社外インタークーラーをつけ
ストレートマフラー、フライホール軽量ぐらいだった。

出力はネットで300馬力を有に超える。

これがどの程度走るのか?
元々このFJ20ターボはドッカンターボと呼ばれ、
いまのような乗りやすいターボ車ではなかった。
鉄火面スカイラインRSも同じエンジンだったが、
シルビアのほうが圧倒的に車重が軽い。

アクセルを踏み込むと大排気量のバイクと同じように
ハンドルから手が離れそうな感覚に陥る。

早い話しじゃじゃ馬のように乗りづらい車だったが、
GTRといえども目じゃなくノーマルならどんな車にも当然負けることはなかった。


ふと人の気配を感じ、車の下に潜ったまま振り向くと、女の子の足が見える。

慌てて後ずさりして立ち上がるとそこに橘優子は立っていた。

長身で色白、綺麗なストレートの黒髪は腰の上くらいまですーっと伸びている。

白いワンピースに大きなひさしの帽子を手に持った彼女は、
まるでテレビのCMからそのまま飛び出したようだった。

綺麗とか美人とかいうより、光輝いていて眩しくて見えなかったと言った方がいい。

何の前触れもなく『こいつだ!』と心の中ではっきり声がした。

それは、生まれて初めて女性に感じた思いだった。


俺は大抵の場合、初対面の女の子からは敬遠されることが多い。

会った途端、明らかに動揺の顔を隠せず『何、何!この人!』みたいな反応であったり、会ってしばらく経っても真面目な奴は『あんな人には近づかないほうがいいわよ。』みたいになる。
『いやいやお前らみたいな不細工に近づくつもりはさらさらないぞっ。』
と思ってみても自意識過剰の勘違いしている女は多くいるのだ。

極一部だが、たま~に何故か憧れの眼差しで見てくれる娘もいた。
しかし、逆にこういう娘たちには近づけない。世間知らずのちょっと裕福な家庭の娘が多く、早いく言えば怖いもの見たさに過ぎないのだ。危険な匂いに対する憧れは持っていても免疫はない。現実的にはうまくいくはずがなかった。

見た目は同じでも女にモテたいがために走っている奴もいる。そんなのに引っかかってボロボロにされる娘も多かった。

俺が仲良くなる女の子は、大体あっけらかんとして明るく物怖じしない、互いに男女を意識しないような奴ばかりで、俺もそういう娘には心を開いて話すことが出来た。


しかし、優子はそのどんな女の子とも違って見えた。
不思議なことに、初めて出会ったそのとき、少なくとも優子は俺に恐怖心を感じているようには見えなかった。ある意味それを含めて、俺の存在そのものが眼中になかったのかもしれないと思えるほど何の反応もなかった。
初夏とはいえ炎天下の中、しかし、彼女は汗一つかかず何故か涼しい顔をしていた。

 

俺は、毎日のように通う行きつけの喫茶店のママに『1ケ月位アルバイトする娘いない?』と頼まれ、知り合いの女友達に誰かいないかと振っていた。直ぐにその女友達から凄くいい娘がいるからと連絡があり、このガソリンスタンドで車いじっているからその娘に来るように伝えてくれと言っていたのだ。

俺たちは、互いに特別意識した様子もなく軽く挨拶を交わした後、汚れたツナギのままその娘を喫茶店に連れて行った。

当然ママは大喜び、一も二もなく優子は夏休みの間、その店で働くことになった。


俺はコーヒーが大好きで、毎日マグカップに10杯は飲んでいた。
インスタントや缶コーヒーは全く別の飲み物だ。
実際俺の水分補給はコーヒーとビールくらいだった。

その当時コーヒー専門店が流行っていて、
行き付けのその喫茶店は20席もある豪華なカウンターのみで連日賑わっていた。カップを選んで注文する。一杯一杯豆を擂って丁寧に立てるとは言え一杯300円前後、当時の物価ではバカ高い。
そこは、コーヒーを飲むだけでなくブログのように毎日毎日常連が、大学や仕事帰りに立ち寄る
コミュニケーションの場所だった。

しかし、この店が流行っていたのは決してコーヒーだけのせいではなかった。

ママと言っても、まだ30にはなっていない。多分28歳くらいだろう。普通の女性とは異なる生まれ持った気品と優雅さを備え、細身ですらっとした日本的な美人だった。それに加え、20歳そこそこの可愛い?女の子を3人も揃えていた。と言っても決して色気を売り物にしている訳ではなく、ママの商売上の戦略だっただけだ。極普通のコーヒー専門店。しかし、ここに毎日訪れるお客の中には、それぞれに淡い期待を抱いていた奴も少なくはなかったろう。


不思議な偶然だが、先にここには別に同じ名前の佐藤悠子という女の子が働いていた。
16歳のとき地方から出て来て、ここで働いてもう4年にもなる。まだ20歳そこそこだが、とてもそんな歳に見えずしっかりしていた。それはこれまで彼女が苦労してきたせいだったが、それ以上に彼女は芸能界にデビューしてもいいほどの色気と魅力を持っていた。

ただでさえこの店は繁盛していたのだが、この『ダブルゆうこ』の噂で客が客を呼び、この二人はその店の最強コンビになるのだった。

正直言って、それまで俺はこの佐藤悠子が気になっていた。しかし、それは恋愛感情ではなかったと思う。少なくとも俺は彼女に恋人がいることを知っていたし、俺が彼氏のいる女に恋愛感情を抱くことはなかった。俺にとって泥沼の人間関係なんて最も嫌悪するできごとでしかないからだ。

勿論、彼女も俺に対して男として意識することはなかったろう。しかし、それを措いても彼女がこれまで辿ってきた過去に、放っておけないような感情を抱かせるものがあった。彼女は何でも俺に話してくれたが、その度に彼女がとてもいい子であることを感じさせた。彼女の見た目だけの色気や魅力に頻繁に近寄ってくる男どもにも、まるで兄貴のように腹が立った。

俺がこの店に出入りするようになってまだ僅か1年くらいだったから、実際彼女の身に何が起こったのかは知らない。

しかし、彼女がこれまで何人かの男に騙されて来たのは間違いないことだった。彼氏が店に来ることはなかったが、時よりママが『鉄平ちゃんが・・』とか言う名前を悠子に話すのを聞いてそいつが彼氏なのだろうと思っていた。悠子は自分が苦労してきた分、周りの後輩にはいつも気を使い面倒を見ていた。だから、何もできない優子が彼女のお世話になったのは言うまでもない。必要以上に悠子は懇切丁寧に手取り足取り優子の面倒をみていた。


優子と悠子。この二人はどう見ても明らかに違っていた。

陰と陽、明と暗というほど正反対だった。大学生になったばかりの世間を知らない優子は、すべてが初体験で何にでも新しいことに素直に感動し、それを恥じることなく身体全体で表現するような大らかさと眩しさとも言える明るさをいつも放ていたし、悠子はどうしても暗い過去の気配を隠すことはできなかった。

そんな対照的な二人が仲良くなるのに時間は掛からなかった。

優子に出会ったからといって、俺の生活は特別変わることはなかった。
相変わらず毎日毎日パチンコと夜は夜で暴走の日々。
いつものように仕事?帰りの夕方、必ずその喫茶店『英国茶館』に寄る。

そこは朝の10時から夜の10時までやっていたので、朝寝坊すると仕事の前や夜眠気覚ましに寄ってから夜走りにいくこともあった。だから多い時には日に3回とか、間違いなく俺は上得意さんだったのだ。

ここには他にスタッフがもう2人いたが。一人はちょっとぽっちゃりした小柄な山下美由紀という20歳の子で、男好きのする感じだが自分がいい女だと少々勘違いしてる。間違いなく俺が無視するタイプ。
もう一人は俺と同じ大学に通う2年生の元ヤンキーで気の強い小林明美。この子はボーイッシュで目鼻立ちがはっきりしている美少年という感じだった。この店にはタイトなワンピースの制服があってデザインは一緒だが、色はブルーとピンク、元々スカートが不自然な感じの明美が、たま~に仕方なくピンクを着てると滑稽に見えて俺はいつも大笑いした。
彼女らはいつも俺を親しみを込めて迎えてくれた。行くと必ず昨日の走りやパチンコの稼ぎを尋ねてくる。

店は多い時で3人、朝と閉店前は基本的に2人で稼動していた。

優子はアルバイトなので昼の13時から夕方19時くらいまでだった。だから、彼女がいるときもあればいないときもある。彼女がコーヒーを入れる確率は20%以下だった。
優子は、仕事を覚えるのがとても早かった。というよりどう見ても18歳には見えず大人びていたし、次の日から熟練者のようにお客に接待していた。
親の育て方がよかったのか、幼い時から優等生だったのだろう。短大だが、県内一の頭のいいお嬢様学校だ。若い子には珍しく言葉使いや常識もわきまえていた。かといっていいとこのお嬢様にありがちなツンとしたところは微塵もない。それ以上に人に対する嫌悪感や臆するところがなく、誰にでも屈託のない笑顔を惜しまず振舞っていた。かといって心には隙がない。優子の前では誰もHな話題や下心を持ち出すことはできなかった。

優子を前にしたときの常連の決まり文句は
『ここ来ると心が洗われるようだねェ。』とか
『嫌なことがあっても優子ちゃんの顔を見ればいっぺんに癒されるなぁ。』だった。
それは、同じ人気のある佐藤悠子のとは、全く別のものだった。
美由紀と明美の存在は圧倒的に霞んで見えた。

彼女は俺に対しても分け隔てなく俺との会話も拒むことはなかった。

勿論出会ったときに感じた『こいつだ』という声を忘れたわけではなかった。
しかし、それはそれ。俺も他の客と同じ感覚を彼女に持っていたし、その以上に、今の俺は自分の状況からして恋愛など出来る立場ではない。ましてや、彼女のような女性が俺のような奴に振り向くはずもない。住む世界が違い過ぎるのだ。

彼女の親は、警察官の超エリート。厳格な家庭で目に入れても痛くない子に育てられた。品行方正、才色兼備、生まれも育ちも非の打ち所がない。学校では先生やクラスメートからの信頼も厚く、学級委員とかで『そこの男子!静かにしなさい!』という、いわば優子女史と呼ばれるような存在だったようだ。それだけの芯の強さも兼ね備えていた。

優子が働き出して一週間ほど経ったある日の夕方、いつものようにその店寄ると、彼女と親しそうに話している男がいた。
歳は20歳くらいだろうか。テニス部のキャプテンのように白のVネックを着た見るからに好青年。俺とは正反対。彼女にはぴったりお似合いだ。
『そうかぁ。彼氏がいたんだぁ。』俺は自然にそう思った。

英国茶館はカウンターがコの字形になっていて俺が座る席はスタッフの通用口に近い端の席と決まっていた。普通の客は当然表玄関から入って来るが、俺はいつもスタッフの通用口から入っていた。常連だからといって一杯で長い間たむろする訳だから、なるべく店の邪魔にならないようにする俺の配慮だ。端だから、店のスタッフも仕事の合間は俺のところにきて客の悪口とか愚痴も言いやすい。言わば半分身内のようなものだった。もっとも、それは俺だけでなく、大学の後輩などそういう常連は何人もいた。店で親しくなった何人かの仲間とコミュニケーションを取り合うのも日課になっていて、一人できても暇を持て遊ぶことはなかった。

その時も、一才年下の大学の後輩でゴルフ部の部長をしていた井上慶介が先に来ていて、
二人でどうでもいいことを話すことで時間を浪費していた。
ここのコーヒーはバカ高いので貧乏学生が来ることは滅多にない。大学でゴルフ部だから当然井上慶介は、親が事業を営んでいる金持ちの息子だった。跡を継がせるつもりの彼の親父は、大学行っても勉強しなくていいからゴルフをみっちり4年間やってシングルになれという方針だったのだ。彼は親の期待に応えてシングルになり、アマチュアの地方大会ではいつも入賞していた。

しばらくして遅番の明美がやってきた。仕事までの時間潰しか、私服のまま慶介の横に座って俺たちは3人でワイワイ話をしていた。これも毎度のことだった。

それから間もなくすると、優子は帰り支度のため俺の横を通り過ぎて更衣室に消えて行った。
すぐに私服に着替えて好青年の彼の元へ、彼が立ち上がると何故か再び俺のところに戻って来て俺に向かって言った。
「あの人高校ン時の先輩なんです。今日はあの人と一緒に帰ります。」
『???』俺は意味がわからなかった。
明美がすかざず「お疲れ様ぁ」と言う。
「それじゃ、お先に失礼しまぁす。」
優子はそう言って軽くお辞儀をすると、その彼氏と店を出て行った。

優子を目で見送った慶介が向き直って悔しそうに口を開いた。
「畜生っ!彼氏がいたのかぁ。てっきり、タカさんに気があるかと思って諦めてたのにぃ。先輩じゃぁなかったんなら遠慮せずアプローチしとけばよかったぁ。」
俺は飲みかけたコーヒーを噴出しそうになった。
「ナンで俺なんだぁ」俺は慶介の頭を軽く度付いた。

「だって、先輩が連れてきたんだし、てっきりそうなのかなぁって、そういうのありがちでしょ。」
「そうかなあ。」明美が口を挟んだ。
「どういうこと?」
慶介は明美を不思議そうに見つめて言った。
「わたしは、彼氏じゃないと思うなぁ。誤解されないよう先輩だってわざわざ言いに来たような気がするけど、、、。」
「えっ?ということはやっぱり、先輩?」
目を丸くして慶介は俺の顔を覗き込んだ。再び俺の拳骨が慶介の頭に飛んだ。

「駄目ェ~っ!タカさんは私に気があんだから、、。」
明美は大げさに言った。
「ばぁかっ、タカさんが明美のような男女に気があるもんかぁ。」
慶介が言い返す。

「明美ちゃん!何してんの?早く着替えて来て。」
そのとき、騒ぎすぎてた俺たちに痺れをきらした佐藤悠子が近づいてきて厳しく言った。
「あちゃぁ、そうだった。慶介君のせいだからね。」
そいう言うと明美は慌てて立ち上がり更衣室に向かっていった。

この優子の不可思議な言動はわからないままだった。

俺は、これまで女性に恋愛感情を持つとどちらかというと意識して話せなくなる。それはとっても居心地の悪いものだった。自分として不自然極まりない。男がやんちゃして道を外すのは、現実から目を反らして逃げる手段か、現実生きれないことの言い訳になる場合が多い。やる前から下らないと決め付けたり、殆どのことに『ダサっ!』とか言って自分が挑戦することを避ける。真面目にコツコツ生きるより面白おかしく生きた方がいいなどと自由に生きてるつもりになっているだけで、自分が不自由であることさえ気づいていない根性なしなのだ。

あの祐二のように生き様としてつっぱっている奴は少なかった。2、3年もつっぱり続けていれば疲れてきたり後悔したり、短絡的に彼女を作る手段としてつっぱている振りをしてる奴もいる。しかし、動機がそれで計画性もないから、そういう奴は直ぐに女を孕ませたりする。
そんなときは逆にラッキーで『連れが真面目に働けと言うもんで』と彼女や子供をダシに使ったり、『男としてケジメつけなきゃなんないし』などとそん時だけ人間らしい理屈を持ってきたり、のうのうと言い訳して晴れてリタイヤできる。もともと信念とかないのだ。

しかし、ある意味こういう奴らは幸せなのだった。本気でそういう世界に突っ込んで抜け出せなくなったら、事故や喧嘩で死ぬか運良く生き残ったとしても人を騙して儲ける方法を覚えたり、犯罪に手を出したり、最後にはやくざにでもなりかねないのだった。

俺が群れて走りたがらないのは、一人が好きというより、そういう連中の中にも俺の居場所がなかったからだ。少なくとも生まれた環境からしてみれば、俺は慶介と同じ部類の人間に入る。
だから惚れる女は真面目な普通の娘だった。つまり、俺の生き方自体がとても中途半端だったのだ。普通の女性にそのことを理解できるわけがない。自分自身が何故そういう状態にあるのかさえわからず探しているのだから、説明とかできるはずもない。運悪く付き合いだしたとしても普通の女の子が抱いてる恋愛ゲームのようにデートしたり、どっか思い出を作るためだけに遊びに行ったりとか、そんな無駄な甘い生活は俺には期待できないのだった。
それがわかると当然女は傷ついて放れていってしまう。

だから、俺は意識した女には口下手になるのだ。もっとも、それまでの恋愛が本物ではなかったのだろう。俺自身を変えるだけの力を持っていないこと自体が見せかけの恋愛ごっこに過ぎない証だった。


逆に不思議と俺が優子を意識することはなかった。それが、初めから住む世界が違うと思っているせいなのか、歳が4つも離れているせいなのかわからなかった。
だから、極自然に時間も掛かることなく俺たちは親しく話せるようになっていた。そんな二人を見て佐藤悠子は『まるで兄妹みたいね。』と表現した。その度に『どこがぁ?』という感じだった。
性格も違うが見た目はまさしく『美女と野獣』と言われてもしかたない。
それほどそのころの俺はギラギラしていた。
ある意味優子の前では普通の俺に戻っていたのかもしれない。それは俺が意識したことでもなく、気づかないことだった。だとしても、運命のようにまるで磁石のように無意識に吸い寄せられるものだったのかもしれない。

そのころの英国茶館だけが俺の憩いの場所だった。
ある意味ここで関わる連中には心を許すことができた。と言っても、彼らがそこで見せる以外の俺をある程度想像は出来てたとしても、本当に俺の世界を知ることはなかった。
コミュニケーションの一環としてさしさわりないことを報告したり、面白おかしくジョークのように話たりすることはあっても、彼らが俺の世界に入り込んで来ることはない。

それは逆もまたそうで、ママも含めてそこにかかわる人間たちの世界に俺が入り込むこともなかった。しかし、優子との出会いによって交わることのなかったこの二つの世界は、予期することもなく必然的に関わりを持つことになるのだった。
 

佐藤悠子と山口美由紀の社員二人は店の二階の寮に住んでいた。
しかし、大学生の小林明美は学生寮に住んでいたので、仕事帰り夜送ったり昼大学に一緒に行ったりした。といっても彼女を大学に降ろして俺は直ぐに仕事場のパチンコ屋に向かうのだ。
二度ほどだが、同じように優子を家の近くまで送ったこともあった。

優子が彼氏?を連れてきた翌日も俺は普通に仕事帰りに英国茶館に顔を出した。
入るとすれ違うように優子が帰りかけていた。
「あら、もう終わり?」俺は挨拶代わりに優子に声をかけた。
その後「送ろうかぁ?」といつもと同じように自然に言葉がついて出た。
相変わらず優子はくったくのない満面の笑顔で『ウン!』と二つ返事。

カウンターの中にいたママに
「また、あとで来るからねェ。」というと
ママも安心し切ったように
「お願いねェ。」と当たり前に答える。

車の中で二人の話は弾んだ。しかし、降ろす間際になって俺は口を滑らせた。
「昨日の奴、彼氏?」
言葉が出た途端俺は後悔していた。

しかし、優子はそんなこと気にもせず言った。
「高校ン時の1つ年上の先輩で生徒会で一緒になって、1年くらい付き合ってたんですが、好きな時もあったような気もするけど、いま考えれば恋愛じゃなかったみたい。彼は私が短大に入ったので思い切り付き合えると思ってたみたい。でも昨日さよならしたんです。」

その言葉に俺は複雑な気持ちになった。混乱したのか言葉を返すことが出来なかった。
「納得してもらえなかったから、タカさんが新しい彼って言っちゃいました。」
多分話の流れで仕方なくダシに使われたのだろうと思った。

俺のUS11は既に彼女を降ろす場所に着いていた。

ホンの一瞬だが、戸惑いの時間が二人を動かなくした。
『ふう~っ』と優子は大きくため息をついて車から降りるような仕草をしてみせた。
しかし、すぐに向き直り俺を見た。気がついたとき俺と優子は見詰め合っていた。

優子の眼差しが愛苦しくてたまらない。金縛りにあったようにどうしても目を離すことができなかった。

俺はゆっくり優子の頬に左手を置いた。
優子は、頬づりするように一旦目を俺の手の方に向け、そしてまたゆっくり俺を見つめ直した。

極自然に二人の顔はゆっくり近づいていった。

いつの間にか唇が重なった。
しかし、間抜けなことに前歯がコツンと当り悠子は慌てて身を離すとドアにもたれ掛かるように笑い転げた。
歳は食っていても俺の経験不足がなせる業だった。

気を取り直した優子は笑顔で
「ありがとうございます。」と言うとドア開け元気よく車から降りた。
ドアを閉める前に「また明日ね。」と言う。
ドアを閉め窓越しに片手の手の平を左右に振ると、
まるでスキップでもするかのように家までの坂道を登っていった。

彼女が振り返ることはなかったが、俺は彼女の姿が見えなくなるまでじっと車の中で見送っていた。

『ふう~っ!』
しばらくじっとしてた俺の口からも大きなため息がもれた。
US11のエンジンを掛けると大きくアクセルを踏み込んで一気に加速し
マフラーの轟音を鳴り響かせながら俺は英国茶館に戻って行った。

英国茶館のなじみの席に戻っても俺の心は晴れなかった。
ママが時折心配して
「今日は元気ないわね。何かあった?」と声をかけてくれる。
その度に『ふう~っ』と大きくため息をつく。
ナンか今日は思いっきり走りたい気分にかられていた。

その日は祐二に誘われていて、
車で1時間くらい走った埠頭の広い敷地内で暴走族の集まりがあるから0時に来ないかと言われていた。


そのとき非番の山口美由紀が店に入ってきた。どうもデートの帰りらしいがそれにしては早すぎる。美由紀は俺を見つけるなり俺の横に座った。

『ふう~っ』何故かこいつも大きくため息をついた。
「何で男って浮気するんだろうねェ~っ!」
まるで独り言のように美由紀は言った。
「ねェ。タカさん、どうして男って浮気するの?」
突然マジになって俺の方を向いて言った。
「浮気する度に許してくれっとか言うんだけど、もう信じられないわ!」
こいつは勘違い野郎なので、まさか自分の方が浮気相手だとは思っていないのだ。何人のも男に騙されながら、自分が騙されたとは思っていない。飽くまでも別れる時は自分が振ったほうなのだ。こういうのを学習能力がない典型なのだろうと思った。

「いまから、走りに行くんだけど、むしゃくしゃしてるんなら一緒に行かないかぁ?」
そのときの俺も普通ではなかった。
「え~っ!タカさんが走りに連れて行ってくれるなんて前代未聞!この店始まって以来じゃない。」
本当に俺が普通の女を連れて走りに行くなんてこれまでに一度もなかった。

「行くっ!行くっ!佐藤悠子だって一緒に行ったことはないでしょう!」
勘違いのこの子は悠子がライバルだと思い込んでいた。勿論この子が悠子に勝つことは一生ないだろう。

美由紀を連れて行くと知ったママが心配そうな顔をしたが、
ここでは俺は信頼されていたので仕方なく気をつけてねと見送ってくれた。

車に乗り込むと美由紀は既にハイになっていた。
何故この子を誘ったんだろうと後悔するのもを忘れるほど俺の気持ちはむしゃくしゃしていた。
今日会ったのが美由紀でなく明美でも、それがあの悠子だったとしても間違いなく誘ったろう。


その頃の暴走族の大きな集会は、俺たちにとってはフリーマーケットのように単なるイベントだった。しかし、企画する度にエスカレートしていき、集まる奴らも次第に増えていった。
観衆を含めると5000人以上が集まるのだから、一般市民だけでなくお巡りにとっても悩みの種で、警察は『暴走族取締強化月間』とか名を打って、いつもその情報を掴むのに躍起になっていた。

俺らが着いたとき幅50メートル前長1km近くもあるその埠頭は、群集でごった返していた。
イベントが始まるとこの1kmのコースの両脇を歓声が埋め尽くす。

俺はダートな山道を攻める方が好きだったが、たまに平地でのイベントにも参加していた。
埠頭でのメインイベントはゼロヨンだが、どこで盗んできたのか工事現場のカラーコーンでダートなコースも用意されていた。オフロードでなくてもジムカーナーみたいにドリフトで技を披露し合う。そのころは既に4WDが主流だったので、俺のRRは全く歯が立たない。
出るとしてもゼロヨンしかないのだが、ここに参加する奴でノーマルの車はない。
圧倒的にGTRかFC3Sが上位を占める。

中でも祐二のGTRはダントツだった。
腕もそうだが、既に店を経営して稼いでいる彼は半端ではない金を車につぎ込んでいた。


当時の暴走族は飽くまでも走るのを前提としていた。
いまのように一般市民や警察に迷惑をかけて喜ぶのが目的ではない。
だから敢えて警察を挑発することなどしない。
できるだけばれないよう用心してイベントの準備を進めるのだ。

不良の集まりのように縄張りとかで喧嘩したり悪さして金を盗むとか、
例え極一部そうだったとしてもそれは走るための手段に他ならなかった。だから、このようなイベントでも喧嘩が始まることも当然あったし、お巡りが来て真剣逃げ廻ることもあった。と言っても大抵の場合捕まるのは決まってとろい群集の一部だった。

埠頭に着くと祐二たちがたむろしているとこに向かう。
車をゆっくり転がしながら、窓を下げて数人の顔見知りの男たちと挨拶を交わした。
一際人だかりが出来ている中心で裕二はGTRをいじっていた。
周りには人相の悪い裕二の舎弟たちがずらりと取り囲んでいる。
彼のグループは規模でも悪さでも際立っていた。

祐二のグループは総勢3000名を超えると噂されていたが、実際祐二の仲間は100名に満たない。しかし、その内の数十人がそれぞれに数十名の族を率いていたので、2~30のグループが祐二の傘下に入っていた。末端にするとそれくらいの数字になる。

祐二はこの地域では伝説の男とされていたが、その数十の族たちが頻繁にあっちこっちで悪さをするので、全部祐二のグループがやったとされていたに過ぎなかった。祐二にとってはいい迷惑でしかなかったのだ。

こういう月に数回のイベントで祐二の仲間で参加しているのは精々50台くらい。
年末とか何かあれば全員に集合が掛かり集まることはあっても、祐二のグループであっても
自分の族を率いているのだから、普段はバラバラに参加している連中もいた。

俺は、いつも剥き出しの嫌悪感を放っている祐二の取り巻き連中とは一線を引いていた。
こんな奴らと一緒にいたら四六時中災いから開放されることはない。
彼らも俺が祐二の高校からの親友と言うだけで一目置いている振りをしていたが、気に入っている訳ではなかったろう。調子に乗って俺が何かしでかそうものなら、直ぐにアヤをつけられボコボコにされ兼ねなかった。

祐二は俺に気づくと笑顔で迎えてくれた。
「やっと来たか?ツーリングクラブのホープが、、、。」
俺のへたくそな走りは四輪じゃないということだった。
祐二がいつも使う挨拶だった。その言葉に型にはまったように廻りは大仰に笑ってみせる。
「今日は走るのか?」祐二はUS11の窓に肘をついたまま俺に言った。
「ちょっと、今日は走りたい気分なんだな。」
「ほう、事故起こす前に引退すんのかと思っていた。」
そういうなり、祐二は横に座っている美由紀に目をやる。
「どうしたんだぁ?タカさんが女連れてくんのって珍しいなぁ?」
祐二は『ため』だが、何故か高校のころから『さん』付けで俺のことを呼んでいた。
美由紀は手を振って祐二に愛嬌を振りまいていた。

誰が仕切っているのかわからないが、イベントの初めはいつしかパフォーマンスが自然に始まる。それぞれが自慢の車に乗って1kmのコースを両脇に陣取った観衆の前でスピンターンなどの技を披露するのだ。一台ごとに観衆の歓声が上がる。初めは四輪で継いで二輪が集団でウイリーなどを披露する。愛嬌で自転車でウイリーをする奴もいた。

美由紀は異常な雰囲気の中興奮を抑えられずにいた。勿論彼女を乗せたまま走るわけにはいかない。知り合いの女の子たちの中に置きざりにされると知っても、彼女は顔馴染みのように溶け込んではしゃぎ廻っていた。

2回ほどゼロヨンに挑戦してみたが、どうも調子が乗らない。
ゼロヨン記録と言っても誰かがストップウォッチで計るのだから数字は正確ではない。
結果は出ないのはいつのもことだったが、2回目走った時、ターボあたりのパイピングが外れて失速、そのままエンジンは吹かなくなってしまった。

俺はブレーキとか足回りとかエンジンはある程度扱えるが、コンピューターで制御されるようになって全くわからなくなっていた。特にターボやインタークーラー付きとなるととても手がつけられない。

まあ、馬力を上げているのでフルスロットルで加速したとき、その負荷に対して水道の蛇口の金具で止めてるだけのゴムのパイプが圧力に耐えかねて外れてしまうのだ。これまでもたまにあったが、基本的にやり直さなければ問題は解決しないだろうと思っていた。

俺が外れたゴムを取り付け終わったとき祐二が近づいてきた。
「相変わらず情けないなぁ。走り屋を気取っていながらこの様なんだからな。」
祐二の嫌味口調は直らない。
「タカさん、ああいう子を連れてくるときは走らないで観客の方に廻った方がいいんじゃないかぁ?」
祐二は珍しく真面目な顔をして言った。
俺は何のことかわからない顔をして祐二を見つめた。
「うちの連中が手に負えないことはタカさんも知ってるだろう。
ああいう子を見ると直ぐ手を出したがる奴がいるんでね。今日は俺がいるから大丈夫だが、、、。」

そのとき突然コースの方から『ドッカーン!』と大きな音がして俺たちは思わず身をかがめた。
誰かが運転を誤ってクラッシュしたらしい。

祐二は血相を変えて音の方に走り出した。俺も後から着いていく。
現場に着いた時、FC3Sが倉庫のコンクリートの壁に激突し、くの字に折れ曲がっていた。
車が観客側の方に突っ込んでなかっただけ運がよかった。
全国的には観衆に突っ込んで何人もの死人が出る事件も発生していた。
俺はそれを見てほっとしたが、祐二の緊張した顔は変わってなかった。多分祐二の仲間なのだろう。

次の瞬間『ボボボッ!』とエンジンから火が上がった。運転してた奴は気を失っているのか出てこない。いつ爆発するかもわからず恐怖で誰も動けなかった。

直ぐに祐二が駆け出して車に近寄ってドアを必死に開けよとした。
しかし、衝突のショックでどこかが噛んでいるのかドアはビクとも動かなかった。
すかさず「タカさん!バールか何か持ってきて!」
と窓やフロントガラスを腕で必死に叩きながら祐二は叫んだ。
『バール?そんな都合のいいものがあるわけない。』と思いながらあたりを慌てて物色した。
マフラーのパイプみたなのが転がっていた。誰のかわからないがこの際そんなことは言ってられない。俺はパイプを拾うと祐二のところに急いで持っていった。
祐二は俺からパイプをもぎ取るとそれでフロントガラスを叩き出した。

火は『ボーッ!』と鳴るたびに次第に大きくなっていった。
近くにいるだけで実際相当熱い。
二発目でフロントガラスは割れたがバラバラにはならず縦横無尽にヒビが入っただけで端がめくれ上がった。祐二はパイプを放り投げめくれたところを剥がそうと必死に持ち上げる。仕方なく俺も下から上にガラスを押し上げた。やっとのことでガラスは車から外れた。その瞬間祐二は運転席に頭から潜り込んだ。足だけ外に出してばたつかせている。
「タカさん!引っ張って!」祐二が再び叫んだ。

俺は思いっ切り祐二の足を引っ張った。祐二が出てきた後にその車のドライバーの上半身が見えた。朦朧と意識はあったが頭を強く打ったらしく血を流し呻いていた。
二人で転がるように引きづり出した後、所かまわず掴んだまま二人でその身体を車から遠ざけた。

次の瞬間『ボオオッ!』と一際大きい音とともに運転席は炎に包まれた。
何人かがどこからか消火器を探してきたのか慌しく炎を消しにかかる。

俺たちは顔を見合わせた後大きくため息をついた。

しかし、息をつく暇もなく次の瞬間、遠くからパトカーのサイレンの音が幾つも聞こえてきた。
俺たちはすぐさま立ち上がったが、俺は祐二に別れを告げる間もなく元いた場所に走り出した。

当然美由紀を探すためだ。会場は大混乱。右往左往にバラバラに逃げ回っている。
直ぐに美由紀と再会することが出来たが、美由紀は何事が起こったのかわからず、
いまだ興奮してはしゃいでいた。幸せな女だ。
俺の車は故障を直すため運良く埠頭の入り口側に停まっていた。
直ぐに乗り込むとエンジンを掛け急発進でパトカーの音の方に走り出した。

美由紀はきゃっきゃ言いながらこのスリルを楽しんでした。

こういう埠頭でのイベントは都心と違って警察に見つかりにくいが、見つかった時逃げ場がない。岸沿いにパトカーが数十台連なってこっちに向かって来るのが見える。周りには何十台も同じように逃げる奴が走っていた。

俺はかなり飛ばしてさっきのゼロヨンとは大違いに次々に抜き去り、初めの交差点まで出るとパトカーと逆の方向にハンドルを切った。車体がタイヤのきしみ音とともにコ-ナーを滑っていく。バックミラーで確認すると何台もこっちに向かってくる車が映っていた。その後方に埠頭に曲がるパトカーとこっちに向かうパトカーが見えた。
『チェッ』と俺は舌を打った。

次の大きなカーブを右に曲がった後、後方の車の姿が見えないうちに直ぐ右の狭い路地に入っていった。俺はスピードを落として車を走らせながらライトを消した。かなり暗いが仕方がない。その狭い道は小高い丘のほうに向かっていた。幾つも路地があるのでちょっと安心した。

やがて海が見える高台に出ると俺は車を止めた。

パトカーも含めこちらにやってくる車はいなかった。
あっちこっちでパトカーがカーチェイスを繰り返している様が見て取れる。


ほっと一息、俺はやっとタバコにありつけた。
祐二が逃げ切れたか気になったが、今のように携帯があるわけではないので確認できるはずもなかった。多分彼のことだから大丈夫だと納得させるしかなかった。

美由紀の興奮は収まっていなかった。
「楽しかったぁ」と余韻に浸っている。

道は丘の方にまだ続いていたが、どこに行くのかわからない。
下手したら元の大通りに戻ってしまうかもしれなかった。こんな暗がりで美由紀と二人っ切りでいたくはないが、仕方なくしばらく留まるしかなかった。俺はリクライニングを下げて寝そべってタバコを吹かし出した。

その行動が美由紀に勘違いさせたのか、彼女も座席を下ろし俺の胸元に顔を埋めてきた。

拒んでもよかったが、ここで騒がれたら益々不味い。
それ以上に彼女が何もしなければそのままにした方がいいと思った。

しばらくしても何も起こらないので、彼女は一度顔を上げて俺の顔を見つめたが、俺は変わらず黙ったままタバコを吹かしていた。美由紀は諦めたのか、また俺の胸に顔を置いた。

ヤケや他の動機で車を走らせるとろくなことはない。それ以上に何の関係もない美由紀を連れてきた自分に腹が立った。これも夕方の優子とのできごとのせいなのだろうか?頭の中を色んな思いが行きかう。

疲れのせいか頭がぼんやりしてきて、いつの間にか俺らはそのまま眠ってしまった。

『ビクッ』として俺は意識を取り戻した。ほんのちょっと居眠りをしたと思った。

いまだ俺の胸で眠っている美由紀の頭を押しのけ、イグニッションを入れると既に夜中の4時を廻っていた。
『フウ~ッ』と大きくためを息をつくと、俺はさらに美由紀の頭を隣の座席に押し戻し、
自分の背もたれを起こした。

美由紀は目を覚ましたが、寝ぼけているのかどこにいるのかわからないようだった。
既に眼下の騒ぎは収まっていた。夏の日の出は早くぼんやりと明るみかけている。

それでも俺は用心深く元来た道を戻る気にはなれなかった。見知らぬ道を先に進むことにした。道は丘を越えて向こう側の大通りに続いていた。止まらずそのまま進めばよかっただけだと思ったが後悔しても始まらなかった。


美由紀は英国茶館に着くまで眠りこけていた。車を駐車場の中に入れて、やっとのことで彼女をたたき起こしたが、部屋まで辿り着けるかわからない。仕方なく俺は降りて助手席のドアを開けると彼女を抱え起こした。美由紀は寝ぼけた状態が心地よいのか俺にもたれ掛かったまま自力で歩くのを放棄していた。勝手知ったる英国茶館の裏の階段を殆ど美由紀を抱きかかえたまま上がっていった。

彼女の部屋の前まで着くと俺は声をかけた。
「美由紀着いたぞっ。お~い、鍵は?」
美由紀は黙ってバックを俺の前に差し出した。
『クソッ』と思いながら、美由紀を胸にもたれかかせたままバックを開けて鍵を探る。

こういうときは中々出てこないものだ。やっとのことで鍵を探し当てたが、これまた束になっている。段々イライラしてきた。やっとのことで鍵をノブに突っ込んでドアを開ける。
再び美由紀に声を掛けた。直ぐに美由紀は笑いながら自力で立つと俺を見つめた。
多分目は覚めていたのだろう。俺のやり取りをぼーとしながら楽しんでいたようだった。

不機嫌な俺の顔を見つめながら、悪戯そうな笑いを浮かべて美由紀は言った。
「一緒に寝よう?」

俺は黙ったまま美由紀の顔を手の平で軽く掴むようにして部屋の中に押し込むとドアを閉めた。
ドア越しに彼女の軽い笑いが聞こえてきた。


俺は車に戻ると再びタバコに火をつけた。
『危ない、危ない。』俺はそう思いながら胸を撫で下ろした。

ある意味美由紀で運が良かったのだ。
これが明美や、まして悠子なら誘惑を避けることができたかどうか自信はなかった。

気分を晴らすための走りが、ますますストレスを感じさせていた。

次の日、俺は真夏の暑い陽射しで蒸し返っている部屋の中、汗にまみれて目を覚ました。
一晩中寝苦しかった。時計を見ると昼の1時を廻っていた。
しばらくベッドの脇に腰掛けてぼーとしていたが、中々目が覚めない。
仕方なく身体を起こし風呂場に向かう。珍しくかなり疲れ切っていた。頭からシャワーを浴びると段々意識がはっきりしてくる。かなり長い間シャワーに浸っていた。風呂から出るとそのままコーヒーメーカーで濃い目のコーヒーを入れる。

髪を乾かし新しい下着に着替え、キッチン脇の狭いテーブルに腰掛けて
コーヒーを飲むころにはかなり正気になっていた。

仕事に行くかどうか迷う。

職業としてのパチンコはシビアなものでメンタル面も大きく左右する。運だけで稼ぎ続けられるほど甘くはない。経験に裏づけされた統計とそれなりの技術がいるのだ。その頃のマシンはいまほどITを駆使したものではなかったし、一か八かのギャンブル性も低かった。おばさんや女性など素人を食い物にするような風潮もいまほどではなかった分稼ぎやすかったのかもしれない。

しかし、コンスタントに稼ぎ続けるためにはルールが必要だった。初めての店では打たないで3日間統計を取る。1万円負けたらその日は仕事を終わりにする。決して一人では仕事しないとかだった。だから俺はいつも3、4人の仲間を作って打っていた。去年までは学友とか走り仲間とか友達が多かったが殆ど就職している。だからいまでは店で知り合ったパチプロとか遊び人風な奴が多かった。こいつらの人間性や生き方は関係ない。フルコミの営業会社と同じで稼ぐ目的のためだけに一緒に働く同僚でプライベートを共有することはまずなかった。

ある意味俺が行かないと彼らに迷惑をかける可能性も高くなる。しかし、気分が乗らないで中途半端に行ったりすると返り討ちに会うことが多いのだ。かといってエアコンの入っていないこの部屋でじっとしているのも耐えられない。仕事をしないとしても明日のためには見に行った方がいいと判断し、重い腰を起こしてだらだらと準備を始める。

アパートを出るころには既に午後3時を廻っていた。

そのころの仕事場は都心からちょっと離れた小都市の盛り場の中にある数軒のパチンコ屋。ここは中途半端なパチプロややくざ崩れ、汚れと称されるチンピラなどがたむろするかなり危ない場所だった。
といっても他から見れば俺も間違いなくその部類に見られるのだ。

いまはどうだかわからないが、その頃は都心で稼ぎ続けると直ぐに追い出される羽目になる。
ごとしと呼ばれる違法行為をしなくても、既に俺は次々に目をつけられ都心では仕事ができなくなっていた。しかし、この街では大人しくして図にのらなければ煙たがれても追い出されることはなかった。
仲間?がどこにいるのか時間で想像できる。難なく仲間の一人を見つけることができた。彼は35歳くらいのおじさんで俺らはパチプロ崩れと呼んでいたが、本人はギャンブラーと言い張っていた。彼曰く、専門は競艇で、パチンコで一週間稼いだ金を競艇につぎ込む。しかし、いまだに競艇ですってしまうのだから才能もないのだ。既得なお人好しとしか言えない。

俺が横の席に座っても彼は不機嫌そうだった。台の下には大箱に玉が山盛りに入っている。雰囲気からして負けてはいないみたいだった。
「勇は怒って帰ったぞっ。」くわえたタバコをしたまま台から目を離さず彼は言った。
勇とはもう一人の仲間のことだ。
この人たちはちんけなプライドを持っているので負けた場合大抵人のせいにする。

「何やってたんだ?」彼は煙たそうに目をしかめて言った。
「ちょっと気分が悪くってね。」
そのとき一人の女性がコーヒーを持ってきて彼の逆側の隣の席に座った。
見覚えのある女だ。彼女は持ってきたコーヒーをおじさんに渡し、俺を見て軽く頭を下げて挨拶をした。彼女も多分俺を知っているのだろう。ちょっと気まずそうな気配だ。

「お前飯食ったかぁ?」突然おじさんは俺に聞いた。
『いや』と俺は首を横に振る。
「今日は駄目だぁ。」そういうとおじさんは立ち上がった。
「お前代わりに打っとけ。おい飯食いに行こう。」
そのころは代打ち禁止とかなかった。おじさんはその女にそう言うと、俺に顎で指図した。俺は立ち上がりおじさんと表に出た。

近くの喫茶店でおいしくもないオムライスを頼んだが、彼はコーヒーと言った。彼の『飯食いに行こう。』が口実だったのがわかる。
「あの女知ってるか?」突然おじさんは俺に尋ねた。
見覚えはあるんだけどと俺は答えた。打って変わって、にやけた表情で俺に顔を近づけ彼は言った。
「あいつはいい女だぞっ。」
あまりに唐突で何のことか俺には意味がわからなかった。
「名器だっ!」
戸惑っている俺に彼は言った。
「????」益々意味がわからない。
「あんな締りのいい女には会ったことがない。」
なるほどそういうことか。経験の少ない俺には実感はわかなかったが、意味はわかった。
『しかし、だから何なんだぁ?』と俺は思った。
「悪いが、俺はここを出ることにした。」
『はぁ?』
彼は彼女と東京に行ってやり直すと言う。彼女も着いて来ると言うのだ。
『いい歳こいて夢なんか見るなよ。』と思ったが言えなかった。
何故なら彼の人生はどこに行っても変わりはしないだろうと思えたからだ。
彼は彼女の不幸な人生の話をし出した。
初めていい男に出会ったとその女に言われたらしい。
俺は、あの女とどこで会ったのか思い出していた。
直感的にそのおじさんが、不味い状況にあることを察していた。

この前会ったときは、彼女はやくざの女だった。
借金の肩に持ち物がいいというだけで売られていく女だ。
人間の悲しい性に不可思議さを感じずにはいられなかった。

人間の価値観は千差万別で圧倒的な基準というものはない。
表面的には正義や道徳、精神や心というものが大切だとされる。
しかし、現実は何でもありの世界で、金や力が基準になったり、性的なものを重要視する向きもある。他人に対してどんな惨い仕打ちをしても感情はビクとも動かない人間もいるのだ。俺はこの世界に身を置いたお陰?で多くの人間の闇を見続けてきた。

特にこういう場末の盛り場には色んな奴が流れてくる。地方から成り上がりを目指して一旦この小さな町でチャンスを覗っている奴。逆に不始末をしでかして破門になった二度と日の目を見ないやくざ崩れ。男に騙され、いいようにこき使われた挙句ぽいと捨てられボロボロになって、もう都会の店では働けない女たち。この町は言わば悲苦に満ちた闇の世界の人間交差点だった。

実父に散々犯され、たまらず家出をした14歳の女の子は、この町に流れ着いて2年後にはいっぱしの娼婦になる。

おじさんのあの女もそんなだった。前会ったときも連れの男が同じようなことを言っていた。その時、幾つだと思うと聞かれて30歳くらいと答えたが、実は21歳だった。元はいい女なのかもしれない。しかし、青白い顔に痩せ過ぎていてどう見ても健康的ではない。手の甲は筋ばっていて婆さんの手のようだった。白い足の脹脛には青い血管が浮いて見えた。彼女は薬を打たれているのだろうと思った。持ち物がいいというだけで散々男に持て遊ばれながら、16歳の頃から男がいないと眠れない身体になっていた。

その時のあまりの悲惨な印象と彼女が俺と同じ歳だったので記憶に残っていたのだ。その女がこのおじさんを騙しているのかどうかはわからない。彼女も真剣こんな世界から抜け出したいと思っているのかもしれなかった。しかし、人間の意志と剥離した肉体に支配されてしまえば彼女の意思は関係なかった。それはまるでサイボーグのように自分の身体でありながら自由にならない勝手な意志を持つようになる。
それが、人間の悲しい性なのだ。
つまり、彼女がこの世界から抜け出すのは不可能としか思えなかった。

このおじさんを説得するのも無理だろうと思った。そういう女は麻薬のようなフェロモンを放っていて、一旦虜にされるとかなり痛い目に会うまで気がつけない。ましてや人生を捨てているようなこのおじさんに欲望を抑えるだけの精神力はなかった。

俺は仕方なく「元気でね。」と言った。このおじさんやその女がどうなろうと、俺の人生には全く関係がない。何を根拠に人の人生が決まってしまうのかわからないが、同じ人間でありながら経験する人生は天と地ほどの差がある。人間の人生や可能性はそれぞれの自由意志に委ねられていると言われるが、果たしてそうなのだろうか?
とてもそうは思えない。あくまでもある程度の轍に限定されてる中での自由意志なのだ。
たまにそこから飛び出して偉人とか大事業を果たす人もいる。しかしそれは極めて稀なことだ。

彼に対して友達とか特別な感情を持っているわけでもなかった。しかし、感覚的には『どうにかならないものか?』という人間全体に対する焦燥感めいたものを感じていた。明らかに彼の人生の轍と俺のとでは違う。その轍を越えて人を背負うことなどできないのだろうか。
敢えてそれを願うとすれば、慈善事業の博愛主義者か何の力も持たない弱者の奢り?
多分神に対するないものねだりに過ぎないのだろう。

ただ、その時俺は『戻ろう。』と思った。
『ここは俺のいるとこじゃない。俺には俺の人生の轍がある。』そこに戻るしかないと思った。
彼らとはそれを最後に二度と会うことはなかった。彼らがその後どうなったのかも知らない。
いや知りたくもなかった。知ればどういう形であれ、必ず俺の心に悔いが残る結果であることは容易に想像できたからだ。


いつかは、そんな日が来ると思っていた。
でも『いつか』は『いつか』である以上、自分の意志で決めない限りやって来ないのだ。戻ると言ってもどういう形で戻れるのかわからない。果たして戻れるのかもわからなかった。ただ、これまで俺が理想とか信念とかを盾にして『ないものねだり』してきたことは明白だった。自分の人生を探すと言いながら、漠然と無駄に時間を使って生きてきただけ。何のことはない。俺も他の奴らと同じように言い訳して逃げ廻り、自分の人生に正面から向き合ったことはないのではと思えた。

優子のこともそうだった。俺がが俺でなくなることやリスクを背負うのを恐れ避けてただけ。
自分の殻に閉じこもり先の見えない未来に恐怖し踏み込むだけの勇気を持たなかったのかもしれないと思った。

人生は未知、先はどうなるのかわからないのが当たり前なのだ。
自分の意志で創っていくしかない。

先のことを思い煩うより飛び込んで自力で這い上がって行くしかないと俺は決心していた。

俺は敢えて、英国茶館に行くことをためらっていた。
昨日までの俺ならしばらく行かなかったかもしれない。
そう感じること自体が明らかに現実から逃げている証なのだと思った。

しかし、俺が英国茶館に着いたときは既に8時を廻っていて優子の姿はなかった。
店の中には悠子と明美がいた。いつもの裏口に近い端の席に座る。
俺はコーヒーの銘柄にはあまり拘らない。美味しければ何でもいいのだ。
だから、俺が座ると頼まずとも彼女らはいつもの奴を入れてくれる。

たまたま悠子が近くにいたので軽く挨拶をしたが、俺を見るでもなく無表情に黙って
いつものコーヒーを入れ出す。何故か悠子は不機嫌だった。


一組の客が帰ってちょっと暇になった時、明美がニヤニヤして飛んできた。
「聞いたぞぉ!」意味深に明美が言う。
『何のことだぁ?』と俺は思った。
彼女は俺に顔を近づけて、他の客には聞こえないように言った。
「美由紀ちゃんと寝たんでしょう。」

『ああ、そういうことかぁ。そうなってるのね。』
気分があまり乗っていないので大仰に否定するのも面倒くさい。
こういう話題はあまり騒ぎ立てると逆に真実になってしまう。
「いや。」俺は静かに言った。

「今度は私としよ。」俺の言葉を無視するように続けた。
冗談だろうが、この女はHには無頓着なのだ。
「だから、寝てないんだって。」
俺はコーヒーを飲みながら冷静にさらに強く言った。

「なぁんだ。やってないのかぁ。面白くね。」
明美は拍子抜けしたのか、ちょっとトーンを落として言った。今度は信じたようだ。
彼女らは、俺が正直に言う性格だとわかっているのだ。


ここの寮は、他のチェーン店の子達も住んでいたので、誰が噂してもおかしくなかった。
昨日の夜中、誰か起きてた奴がいたのだろう。
或いは俺がドアを閉めた時、中から出てきたと思ったのかもしれない。
悠子の部屋は美由紀の斜め前だったが、彼女がそんな下衆な噂を流すことはないとわかっていた。
しかし、機嫌が悪いのはそのせいかと思った。

殆ど一晩中、美由紀と一緒にいたのは間違いないので、どう思われても仕方がない。

「でも、次は絶対私を走りに連れて行けよっ。」
明美は男口調で言った。
しばらく考えて俺は言った。
「う~ん、無理だな。」
「え~っ!何でェ~?」
「辞めた。」
「何を?」
「走り。」
明美との短い会話が続く。
「ええ~っ?走るの辞めたのぉ?」
何故か明美にとっては、当の俺より大問題だったようだ。慌てて悠子に報告に行く。
「悠子ちゃん、あのさぁ、タカさん暴走族辞めたんだってよぉ!」
『誰が暴走族だ?』
再び俺のとこに戻りながら明美は喋べり続ける。
「暴走族ってそんなに簡単に辞めれるのぉ?指詰めもんじゃない?」
『お前何か勘違いしてないか?その前に俺は暴走族じゃないんだって・・・。』

「明美ちゃん、タカさん走るだけで暴走族には入ってないのよ。」
代わりに遠くから悠子が説明してくれた。
「だって、美由紀ちゃん昨日暴走族の集まりに行って、
お巡りに追い掛け回されて楽しかったって言ってたよ。私もやってみたぁ~い。」

『おいおい、美由紀と話したんなら、寝てないこと言わなかったのか。』と思った。
「だから、走りには行くけど、暴走族のメンバーじゃないの。」
悠子が今度は近づいてきて言った。明美はやっぱりわかってないようだった。


しばらく悠子は、俺の前で俯いたまま考えていた。
「何してたの?優子ちゃんしばらく待ってたわよっ。」
急に彼女は顔を近づけ、ちょっと怒ったように言った。
『待ってた?・・・そうか、待ってたのか。』そう思ったが、言葉にはならなかった。

悠子は俺と優子のことを知っているのだろうか?
よくよく考えれば悠子が俺にヤキモチなどわくはずもないのだ。
『不機嫌なのはそのせいかぁ。』とちょっと残念がる。
或いは勘のいい悠子のことだから俺のこと見透かされていたのかもしれないと思った。

「美由紀を走りに連れていくなんて、タカさんらしくないね。」
「俺も不味かったと思っている。」

「わたし、初めからわかってたよ。」
「何を」
「タカさんと優子ちゃん」
茶化してる様子もなく真面目に話す。

「この二人、そうなるだろうなぁって。」
 俺は、テーブルの上のコーヒーカップを見つめながら黙って聞いていた。

「見た目も感じも全然違うけど、波長が同じってか。初めから兄妹みたいって言ってたでしょ。
多分魂が兄妹みたいなもんなのよ。理屈じゃなく直感で感じたの。
ってかそうなればいいなとも思ってた。」
「別にまだ、何にも決まってないんだが、、、。」

優子が彼女にどこまで話しているのかわからないが、
俺が勝手に覚悟を決めただけで優子の気持ちがどうなのか全くわからないのだ。

「そんなの関係ないわよ。わたし応援してるんだから。もういい加減前に進みなさいよ。」
俺はちょっと驚いた。悠子がこんな言い方をしたのは初めてだった。
戸惑っている俺に悠子は続けて言った。
「よくわかんないけど、タカさん見ていて、わざわざエネルギーを溜めてる感じがしてた。
だからストレス発散に走りに行ってるんだろうなって。若いからそれも仕方ないんだけど。
タカさんがそれ以上に命を掛けれる何かを探してるってことはわかるけど、
でも待ってても来ないような気がする。」

20歳の小娘に偉そうに説教されたのは初めてだった。
しかしそれは、彼女の優しさであり、また俺に対する厳しさでもあった。

多分これまでも悠子は俺のことを心配してくれていたのかもしれない。
ただ、俺の頑固さを知っているだけに、口にすれば逆効果とわかっていたのだ。

「それには、何かきっかけが要るんだろうなって思ってた、
それが優子ちゃんなんだって思ったの。」
『確かに・・・そうなのかもしれない。』と俺は思った。

優子は仕事先の先輩であり年上である彼女をそれ以上に人間的に信頼していた。
俺が思う以上に彼女らは仲が良かったのだ。

「お願いだから、あんな子は大切にしてね。」
彼女は真剣に真面目に言った。
「わかってる。」俺は有無も言えず首を縦に振るしかなかった。

見た目以上にこんないい子は本当にいなかった。他人のためなら自分を犠牲にできる女なのだ。
彼女もまた若くして人間の闇を見てきたために逆に人のことを思いやれる女性になっていた。
それは彼女が持っている芯の強さ故だった。弱い女だとヤケになったり道をはずしてしまったろう。
その上学歴はないとしても頭のいい女であることも間違いなかった。
彼女は出会う人の光と闇、心の動きを察する力も持っていた。
だから、彼女が言い出すと否定できないものがある。

「「どうするつもりなの?」
「どうすると言っても俺は大学生だぞっ」

『ふんっ』と悠子が鼻で笑う。
「わかった、わかった。今のは冗談だ。」
また、見透かされたと思った俺は慌てて言った。
『まだ大学生』は俺の場合言い訳にならない。

「先のことはわからないけど、飯食わなきゃぁなんねぇし、
パチンコで泡銭稼いでも全部使っちゃうから、
取り合えずまたトラックにでも乗ろうと思ってる。
俺に直ぐできることと言ったらそれくらいしかないからな。」
俺のその言葉に安心したのか、彼女の表情は少し明るくなった。

「ちょっと話変わるけど、一度一平に会ってみない?」
「???」
悠子の唐突な言葉に俺は戸惑った。
「一平って悠子がいま付き合ってる奴だろ?」

これまで悠子が俺に彼氏の話をすることは全くなかった。名前以外全く知らない奴だ。

「半年くらい前、彼の先輩がサラリーマン辞めて家の運送会社を継ぐことになったの。
その先輩に誘われて一平は営業として手伝いすることになったのね。
彼凄く頑張って仕事が増えてきて運転手が足らないんだって。
前タカさんの話をしたら、紹介しろって言われてたんだけど、
ちょっと言う機会がなくって、もしまだ働くとこ決めてないんだったら会ってくれない?」
『おいおい、仕事の世話までしてくれるのか。』と思った。
トラックの運転手なんて条件が同じかそれ以上ならどこでもいいのだ。
働くなら早い方がいい。俺は悠子の誘いを受けることにした。
しかしそれ以上に、悠子の彼氏に会ってみたかった。
彼女が俺のことを心配していると同じように、俺も悠子が可愛い妹のように気になっていたのだ。

その一平とはこの店で次の日の夕方6時に会うことになった。

しかし、佐藤悠子の危うさは、気になってる他人のことはある程度わかるとしても、
自分のことになると全く見えなくなることだった。
それも彼女の持って生まれた性なのだろうか?

そのときは、これから起こる様々な事件が俺にも悠子にも全く予想もできなかった。

 

その夜、ベッドに横になっても一度考え出すとエンドレステープのように同じ思いが何度も頭を刺激する。
しばらく我慢していた俺も、諦めてまた身体を起こし、
大好きなFore Rosesのブラックをロックで飲み明かした。

次の日仕事がない気の緩みも拍車をかけた。

二日続く寝苦しさに、またもや疲れきって目が覚めたときは、既に夕方近くになっていた。

日頃は3時間で十分な睡眠が10時間近く眠ったことになる。それでも寝足らない感覚だ。
肉体労働なら丸二日間徹夜、車の運転なら24時間休みなしでも平気な俺が、
真面目に神経を使うとそのストレスで疲れ切ってしまうようだ。
それが女絡みとなるとなおのことかもしれない。

俺は、泥沼から這い上がるように重い身体を気力を振り絞って奮い起こしヨタヨタしながら風呂場へ向かう。
シャワーだけでは目が覚めず、湯船に水を溜め30分以上も浸かっていた。

昨日の段ではない。風呂から上がると直ぐに濃い目のコーヒーを入れ、マグカップに二杯煽るように飲んだ。
一息ついて時計を見ると5時をちょっと過ぎたところだった。

『まずいなぁ。』あの一平と6時に会わなければならないってことは、
こんな状態で優子に顔を見せなきゃならない。
俺は英国茶館で待ち合わせをしたことを後悔した。
『優子が今日休みなら・・・。』という期待がよぎる。

優子に対して俺の腹は決まっているとは言え、初めてのことで、
これからどうして行くのか一晩中考えたが結局結論は出なかった。
もっとも結論とかでるようなものではないのだ。

鏡を前に、髭そり後のローションをたっぷり塗って『バシッ!バシッ!』と両手で頬を叩いて気合を入れる。
シルビアに乗り込みエンジンを掛けるとエアコンを全開にした。
顔を近づけると冷たい風が汗に当たって生き返るように気持ちいい。

しばらくその心地よさに目を閉じたまま身を任す。
身体が冷えると目を見開き『よしっ!』とばかりにギアを入れた。

英国茶館の駐車場につく頃には、俺は気持ちを入れ替えていた。
『もうあれこれ考えるのはよそう。兎に角前に進むだけだ。』

いつものように裏口から入り薄暗い通路を抜けて店に入る前に大きく深呼吸した。
できるだけ自然な顔をしてカウンターの店内に入って行く。

俺の期待を裏切り優子はそこにいた。
彼女は、俺を見るなり底抜けに明るい表情をして見せた。

もう、何年も会ってないような気がした。
硬くなっていた心のしこりが跡形もなく溶けて行くのがわかる。
地獄から這い出てきたばかりの鉄のように重く感じていた身体が、
天使の羽に包まれたように一瞬にして軽くなった。

『優子の存在はこれほどまでに力を持っていたのだろうか?』
優子に対する思いが、俺の心を圧倒的に占めていることをあらためて感じさせた。

似合わないだろうが、俺は思わずニコッと笑っていつもの席に平然と座る。
優子は直ぐに駆け寄ってきた。満面の笑顔が眩し過ぎる。

「いつもの奴入れるね。」と何事もなかったように言う。
少なくともコーヒーを入れている彼女は明らかに幸せそうに見えた。
『一昨日のことや美由紀のこと、昨日待たせたことなど、何も感じてないのだろうか?
それとも何とも思ってないのか?』
そういう思いが心に浮かぶが尋ねる気はしなかった。

「これから、悠子さんの彼氏に会うんでしょ。」
コーヒーを入れた彼女はカップを差し出しながら言った。
「わたし待っててもいい?」優子の可愛い口びるから極自然に言葉が出る。

天上に昇る気持ちとはこういうことを言うのだろうか?
俺はこれまで感じたことのない幸せの感覚を何度も味わっていた。

「待っててくれるか?多分30分くらいで終わると思うが・・・。」
こういう主体性のない言い方も俺にしては稀なことだった。
「うんっ!」即座に屈託のない返事が帰ってくる。
「悠子さん非番だけど彼と来るだろうから、更衣室で話でもしてる。終わったら呼んでね。」
と言うと優子が俺から離れていった。俺の視界から彼女の笑顔が消えてゆくのがとても辛く感じた。

それとほぼ同時に悠子が裏から入ってきた。俺は我に返るしかなかった。
「タカさんお早う。ママに言って裏の応接室を使わせてもらうことにしたの。
一平もそこにいるから行ってもらっていいかな。」

普段着の悠子はジーパンに薄いグリーンの襟元が広く開いたTシャツを着ていた。
仕事の時は丸めてアップしている長い髪もそのままだった。
普段着の彼女を見るのは滅多にないことだが、首筋から胸元にかけて露わになった素肌が真っ白で色っぽい。
男が放っとかないはずだと俺は思った。

「ああ、わかった。」と俺は立ち上がる。
「後からコーヒーを持っていくね。更衣室で優子ちゃんと待ってるから・・・。」
悠子は俺とすれ違いながら言った。
背中越しに優子と悠子の話し声が聞こえる。


薄暗い通路の出口の手前右が更衣室で左が応接室だった。
応接室といっても事務机もあるオフィスを兼ねているところだ。
俺は一応ノックをしてドアを開けた。
そこに一平は立っていた。

背はほぼ俺と同じ180cmくらいだが、ガ体は俺よりでかい。
というより俺が70kgそこそこの殆ど脂肪がない細身だったから、彼は少々肥えていると言った方がよかった。
俺とは対照的に色も白い。
髪も裾の方が肩まで届きそうな長髪で黒のスーツに白のYシャツ、ネクタイはしてなかった。
それにも増して『なるほど、これで悠子は落ちたのか。』と思わせるくらい色男なのだ。
つまり、そのままホストにでもなれば間違いなくNo1だったろう。

『確かにいい男?』しかし、俺の第一印象はそれとは違っていた。
俺が知っているある人種の匂いがする。ある人種とは『ヒモ』なのだ。

いまでも『ヒモ』と言われる男たちがいるのだろうか?
最近、この手の色男は見なくなった。確かにイケメンだがイメージがちょっと違う。
現在は個性的とか或いは中性的な男性をイケメンとする向きがある。

女を食いもんにする、なんたら獅堂、小**旬、市川なんたらとも違う。
女を惑わせるフェロモンを漂わせているのは同じとしても、
何とも言えない一種独特の柔らかく甘い雰囲気を生まれながらにして持っているのだ。

俺はそのことをそんなに気にすることはなかった。
それは優子とこれから過ごす短い時間の方が圧倒的に大切だったからだ。

一平は俺を見るなり笑顔で挨拶した。我が家のようにソファに座るように勧める。
一平は長々と説明しだしたが、俺にとって話は簡単だった。
給料さえ間違いなければそれだけでいい。どんな仕事でもこなしてみせる。
トラックの運転手として雇われるのに履歴書など出したことはなかった。
給料は月末纏めてくれるにしても、いずれにせよ日雇いでしかないのだ。

彼は俺の話や経歴を聞いて俺に何かを期待したようだった、しかし、何を期待したかはわからない。
彼は俺より二つ年上だったが、少なくともこの若い青年は俺とは違う野心を持っていた。

途中悠子がコーヒーを持って入ってきた。
「決まった?」
「ああ、タカさんに内で働いて貰うことになった。」
悠子は安心した様子だったが、どことなく彼女が一平に気を使っているように思えた。

悠子が彼に惚れることがわからないでもない。しかし、それ以上には俺は一平に興味を持たなかった。
次の日の朝7時に会社に出勤することを約束すると、俺は二人に別れを告げた。


俺が応接間を出ると優子は通路で待っていた。
俺を見る笑顔が愛くるしくて思わず抱きしめたい衝動にかられる。

その日優子と別に何をするでもなかった。
少なくとも俺は焦って二人の関係を深めようとは思っていなかったし、彼女の生活を変えるつもりもなかった。
彼女がバスで帰るときは遅くとも8時前には家に帰り着いている。
だから、一緒にいれる時間は1時間もないのだ。
都心が遠くに見える景色のいい彼女の家の近くの小高い丘の上に車を停めて、
僅かな時間を惜しむように話すだけだった。

彼女もそうだと思うが、兎に角俺は優子のことが知りたかった。

陽が沈みかけて夕焼けさえも消えようとする。

俺は仕方なくエンジンを掛けた。無口な二人を乗せた車はできるだけゆっくり坂道を下って行く。
優子の家が見えるところで俺は車を停めた、

その日は降りようとする優子の手を引き止めるように握っただけだった。
お互い見つめ合ったまま中々その手を離すことができなかった。

「明日は?」優子が別れ際に淋しそうに尋ねる。
「多分迎えに来る。でも終わるまでに来なかったら帰ってね。」
何故か美由紀や明美に使う言葉とは全く違う。

彼女は『うん』と素直に首を縦に振っただけだった。
優子は、大人びたその身なりとは違って俺の前では子供のようだった。
考えてみれば彼女はまだ18歳。それが本当の優子の姿だったのかもしれない。

優子が家に入ったのを確認し俺は車を静かにスタートさせた。
彼女の家の明かりをゆっくり眺めながら通り過ぎる。
何故か胸を締め付けられる切ない思いと何とも言えない幸福感とが俺の心を交互に訪れてる。

久々に感じる充実感だが、これまでに感じたことはなかったことかもしれない。

『明日から新しい生活が始まる。』
と言っても既に刺激もないトラックに乗るだけだから何も変わったことではないのだ。
当然緊張感とかもなく、新しい職場に期待することもなかった。

少なくとも初日から遅刻するわけに行かない。

その日は真面目に家に帰って、幸せな余韻に浸りながら早めに眠りにつくことになった。
 
 

次の朝、前の日早めに寝たお陰もあってすこぶる快調に目が覚めた。
6時前とはいえ、既に外は夏の暑い陽射しを予感させるように白く輝いていた。
忙しないせみの声もいっそう強くそれを感じさせる。

俺はしっかり朝食を済ませたあと、遅刻しないように早めに家を出た。

優子のお陰で気分も最高に乗っている。矢でも鉄砲でも持って来いという感じだった。

新しい職場の事務所は街中からちょっと外れた、車で30分くらいの言わば倉庫街にある。
朝早いので十分すぎるほど余裕を持って着いた。

10t車が3台と2~4t車が20台程度の小さい会社だったが、思ったより敷地は広い。
独立した事務所と別にデポと言われるターミナル付きの300坪くらいの倉庫も持っていた。
社長は家を継いだと言うことだったが、車も建物も結構新しい。

事務所に入ると一平は既に来ていて、数名の従業員に忙しく支持を与えていた。
営業だけでなく実務は一平が任されているのだろうか。

休憩場所か何かわからないが、事務机とは逆の方にあるソファーのとこに5名くらいの
人相の悪い若い運転手がタバコを吹かしながらたむろしていた。
今と違ってそのころのトラックの運転手は上品な奴ばっかり。まず大学行ってて乗ってる奴など滅多にいない。
こんな風が吹けば飛ぶような小さな運送会社に来る奴は、殆どが中学卒で学歴もないか、
住所不定のようなのが多かった。事故起こして相手が死んでも自慢するような奴らだ。

『う~ン、パチンコやめて新しい生活始めようかと思ったが、人間関係は今までと然程変わらんな。』
と思わざるをえない。
俺を見るなり挨拶代わりに『何だぁ?お前?』と全員目で威嚇してくれる。
当然俺は、こんな人たちとお友達になりに来たわけではないので気にすることもなく
黙ったまま一平の手が空くのを待っていた。
仕事を貰ってトラックに乗ってしまえば後は一人でやればいいのだから彼らのことなど関係ない。

一平は手が空くと俺に笑顔で、こっちに来るよう仕草をして見せた。
スーツ姿のホストの彼はどう考えてもこの職場に似つかわしくない。
「タカさん、お早う。今日は初日だから3日間ほどウチのモンについてルートを覚えてくれ。
山崎君!ちょっと来て。」
『ゲッ!俺一人じゃないのかぁ?住所と地図さえあれば大丈夫なんだが・・・。』
と思ってソファに目をむけると、呼ばれた奴も『ナンで俺がぁ?』と不服そう。
多分25歳前後だろう。他の奴より歳上に見える。

その山崎は、嫌々ながらタバコをもみ消すと立ち上がり、スローモーションのようにかったるそうに
ギクシャク動く。どこか具合でも悪いのだろうか?
「今日から、この会社で働くタカさんだ。大型は持っていないが4tは転がせるから、そのうち中距離を
走ってもらうかもしれません。取り敢えず南方面のコースを3日間くらい教えてやって貰えますか。」
俺は一応『よろしくお願いします。』と挨拶したが、山崎は俺を見るでもなく、またかったるそうに動き出す。
『いちいちそんな動きだと人生相当無駄にするぞっ。』と思った。
彼は伝票の入っている棚の方に行って伝票と車の鍵を取ると、
一度俺の方を振り向き顎で行くぞとばかりに指図した。
トラックに乗り込んでも、こんな奴と会話する話題は見つからないので、俺はずっと黙っていた。
時間の無駄に思えるが、まあここは我慢するしかない。

しかし、こいつは運転が荒い。というか兎に角周りを蹴散らすような運転をする。
車線を右に入ったり左入ったり、ウィンカー出した瞬間に車線変更をかける。
前がもたもたしていると直ぐ幅寄せしたり、クランクションを頻繁に鳴らす。
すれ違いざまに相手に罵声を浴びせ、気に食わなかったら相手の車に唾を履きかける。
トラック運転手の模範とも言うべき奴だ。

こんな奴は多分長生きできないだろう。いつか事故起こすか痛い目に必ず会う。
そういうのがカッコいいとか運転が上手いとか、相当の勘違い野郎なのだ。

こんな奴といるとナンか背中を逆なでされているようで段々苛々してくる。

しかし、俺に何かをする訳ではないので、腹を立てる訳にもいかない。
俺は届け先に付くまで寝たフリを決め込んだ。しかし眠れるわけがないのだ。

こいつがやっているのは独り芝居なんだと思い込むしかなかった。

しかし、それでも段々我慢ならなくなる。昼になり3時になりやっと最後の一軒になった。

トラックは田舎の山道に入った。
これがもう話にならないくらい下手クソッで危なくって乗ってられないのだ。
コーナーを曲がるとき膨らみすぎて前から来た対向車が慌てて路肩に車を避ける。
その度に山崎は『ギャ、ハハ』と楽しそうに品のないバカ笑いを上げていた。

最後のお客のとこに着く頃はもう限界だった。
もし事故でも起こせば帰りが遅くなり、優子を迎えにいけなくなる。

最後の荷物を降ろして車に乗り込んだとき
「帰りは俺が運転しましょうか。」と言うと
「おお、そうかぁ?」と言って山崎は上機嫌で代わってくれた。

しかし、奴が乗りこんだ瞬間、車は急発進!俺は黙って構わずどんどんスピードを上げていった。
山崎は目を向いて何が起こったかわからないかのように前を見たり俺の顔を見たりを繰り返している。

トラックは下りの山道に入った。それでも当然スピードは落とさない。

『キキキキーッ!』とタイヤのきしむ音とともに、4tトラックが荷台を大きく滑らせながら
ヘアピンカーブを曲がってゆく。
初めはカウンターを当てるくらいで済んでいたが、スピードを落とさないので前輪まで滑り出す。

後輪はダブルタイヤだから中々滑らない。滑り出したら止まらない。
4tトラックのドリフトはなかなか難しい。内心俺も真剣だ。
その間中山崎は、
『やめてれ~!』『助けて~!』『わかった。わかった。もうやめろ~!お願~い!』
車が右、左に揺れる度にあちこちにしがみつきながら、ずっと歓喜の悲鳴を上げ続けていた。
多分彼女に見られたら二度と相手にされないだろう。もう、泣きそうに懇願し出す有様だ。

平地になってやっとスピードを落とす。奴は放心状態でぐったりしていた。
これでやっと静かになった。

あの元気はどこにいったのか、山崎は事務所に着くまで一言も話さなかった。
トラックは会社の倉庫にバックで止まった。
奴はトラックを降りるとへなへなと歩いていき、デポにいた数人の仲間に向かって、
「こいつ、凄エ、危ない運転しやがる。」と力なく告げる。
『お前が言うな!』と俺は思った。
それ以来、こいつらと仲良くなることはなかったが『ナンだ?こいつ。』という目で見る奴はいなくなった。


明日の仕事の荷物を積み込み事務所へ戻ったときは既に6時を廻っていた。
ちょっと時間が気にかかる。

俺を見るなり一平は上機嫌で声を掛けてきた。
「お帰り!大丈夫だったみたいだね。山崎君から明日は一人で廻らせもいいと言ってきたよ。」
「ああ、そうか。助かる。」と俺は本音を言った。
「いやいや、会社に紹介した手前、助かったのは俺の方だ。いま運転手が足らないからね。」
ちょっと間をおいて俺は言いにくそうに言った。
「入ってそうそう悪いんだが、何時に上がっていいんだ?」
「コースによるからね。朝7時に出れば大体今頃かな、急な集荷が入れば行って貰うこともあるかもしれない。」
トラックの運転手で12時間労働は当たり前のことだった。
「無理にとは言わないが、朝はどんなに早くてもいいから、いまくらいに上がらして貰えればと思うんだが・・・。」
俺が仕事に私情を持ち出すのは初めてのことだった。

「中距離なら朝の4時に出て夕方の5時ごろ帰って来れるんだが、そのうち考えるよ。
こっちの方が仕事も楽で給料もいいからね。」
「できればだから、無理はしなくていいよ。」
「あっ、そうそう。社長に紹介しなきゃ。ちょっと待ってね。」

一平は突然話を変えると、奥の社長室に入っていった。
直ぐにドアから顔を出して、おいでと手を振る。
俺は、社長室に入って行った。社長室と言っても普通の間仕切りされた狭い部屋だ。
そこには、40歳くらいの男性が机に座っていた。とても運送会社の社長らしくはない。
気の優しそうな細身の『おじさん』とは呼べない若い感じがした。

「社長、新しく入ったタカさんです。」
俺は社長の前に立つと丁寧にお辞儀をした。
机の前には椅子が二つあって、社長は座るように誘う。
社長室の時計が目に入ってまた時間が気になる。

俺と一平は椅子に座った。
「一平から聞いたよ。若いのにベテランだってね。よろしく頼むよ。」
俺は『いやいや』と謙遜したように苦笑いした。
「実は、俺も一平も運送の仕事は初心者なんだ。親父が急死したので後を継いでまだ半年。
中小企業の営業マンより将来があるかなって思ってね。でっ、一人では不安で一平も道連れにしたんだ。
タカさんは、大学行ってるんだって?」
俺は一応頷いた。
「知ってる通り運転手ってバカばかり、中卒や社会からはみ出したような奴しか来ない。
でもこれからは時代が変ってくると思うんだな。運送でも頭のいる事業になるってね。
だから、できれば君にも協力して欲しいと思っている。」

『なるほど、初めて会ったとき感じた一平の期待はこれだったのか。』と俺は納得した。
「今直ぐどうとかないけど、取り敢えずタカさんには全体の仕事の流れを把握して欲しいと思っているんだ。」
一平が話を繋げる。
「まだ、入ったばかりで何もわかりませんが、できるだけ頑張ります。」
と俺は社長に向かって答えた。

一平たちに別れを告げ社長室を出たときは、もう7時になりかけていた。
俺は焦ってシルビアに乗り込む。
間に合うかわからないし、優子は帰っているかもしれない。

いままで女と付き合っても、こんな感覚になったことはなかった。
まず、自分の生活を変えることはない。
時間が許せば、或いはお互い時間が合えば連絡を取り合って待ち合わせを決める。
俺にはデートという感覚ではなかったが、今回は全く違う。
何より気持ちを抑えられないのだ。

運が悪いことに夕方のラッシュで道路は混んでいた。幾ら運転に自信があるとは言え、こんな状態を飛ばしてもそう時間は稼げない。できるだけ混んでいない裏道を走り抜けるしかなかった。

英国茶館に着いたときは既に7時30分を廻っていた。
コーヒー目的以外でここに来たのは初めてのことだった。
かなりの落胆が俺の心を襲う。俺は半ば諦めていた。

俺は駐車場の車から降りて、ゆっくり裏口のドアに向かった。
しかしその時、急にドアが開き誰かが飛び出してきた。
薄暗い中でもそれが優子だとわかる。待っててくれたのだ。
優子は俺の顔を見ると満面の笑顔でしがみついてきた。

「車の音が聞こえたんで慌てて更衣室から飛び出して来ちゃった。」
優子は半泣き状態だったようだ。
「もう、来ないのかと思ったけど、帰る気にはなれなかったの。ごめんね。」
「遅くなってごめん。嬉しいんだけど・・・でも頼むから時間が来たら帰ってよね。」
俺は強がりを言いながらも優子をしっかり抱きしめていた。


既に俺と優子は何をする時間もなかった。車を飛ばして優子の家に向かっても、ぎりぎりいつもの時間なのだ。

優子は、少しくらい遅れてもいいからと言ったが、5分が10分、10分が20分になってしまう。
多分キリがなくなってそのうち抑えられなくなる。
『焦らなくても俺たちにはまだまだ時間はある。』俺は自分にそう言いきかした。

俺はどこにも寄らずに優子を降ろす場所に車を停めた。
「明日は何時まで?」と優子に尋ねる。
「明日は6時。」
「早く着いたら少しは一緒にいられるね。」
「7時くらいまでは待ってるから。」
そう言うと優子は俺の手に自分の手を重ねた。その手をぎゅっと握り返す。
「7時まで待って来なかったら、絶対帰れよ。」
「わかった。それじゃ。また明日ね。」
俺はずっと優子の顔を見つめていた。明日までできる限り長く優子の顔を脳裏に焼き付けておきたかった。

優子を降ろした後、昨日と同じく彼女の家の明かりをゆっくり眺めながら通り過ぎる。
胸を締め付けられる切ない思いは昨日よりさらに強くなっていた。

彼女と一緒にいれたのは多分30分にも満たない。でもそれが何よりも大切な時間だった。
 

僅か10日前には優子は俺の心の中にはいなかった。
まさか、俺にこんな状況が訪れるとは全く予想もしていなかった。
これまで女性に対して、好きだという感情やずっと一緒にいたいと感じたことはある。
それが恋愛だと思っていた。
しかし、女性とデートすることは、俺にとっては特別のことで日常的なことではなかった。
取ってつけたような違和感さえ感じる。
一人でいてもその娘のことを思ったり、また会いたいとも思う。
それが愛することだと思っていた。
しかし、それを言葉にすることはなかった。
何故なら、人を愛するということが俺自身何なのか、はっきりとはわからなかったからだ。

俺には女性と手を繋いで公園を散歩したり、一緒に遊園地に行って思い出作りに励んだり、
時間的にも精神的余裕もなかった。
ましてや相手から会えないことで愚痴を言われたり、
人生のリズムを壊されるのは我慢ならない。
づかづかと土足で生活に入り込まれるような感覚に陥ってくる。
やがてその女性から次第に気持ちが離れてゆく自分を感じるのに時間は掛からなかった。
だからそういう思いが芽生えても、その自分の思いさえ信じることはできない。


優子に出会って初めてわかったことだが、俺にとって『愛』とは肉体的なものや性的なもの、
人間の本能を超越した絶対的なものだったのかもしれない。
感覚的に言うと一緒にいること自体が極当たり前で、
一人でいることの方が不自然で落ち着かないのだ。
優子との出会いは、これまで気がつかなかった亡くしてしまった
自分自身のかけらを見つけたような気がした。
二人で一人という感覚なのだ。

人が人のことをこれほど強く思えるなんて信じられなかったし、
また彼女からそう思われていることを自然に自覚することもこれまでにはなかったことだ。

彼女と遊園地に行ったり敢えてデートする必要はなかった。
できる限り毎日、僅か一瞬でも彼女と同じ時間と空間を共有するだけで満足だった。
これまで何を考えて生きてきたのか?出来事の一つ一つ、その一瞬一瞬何を感じてきたのか、人生の全てを事細かに隅々まで共有し合う感じだった。そして、何故か共感し会えるのも不思議だった。

俺は優子に付き合ってくれとは言わなかったし、これまでと同じように俺の口から愛しているという言葉が出ることもなかった。互いに相手の気持ちを確かめ合うこともない。
それは、どんなに言葉で言い表しても相手を思うその強い思いを到底表現できないと感じていたからに他ならなかった。

俺は毎日仕事をして余程のことがない限り、殆ど毎日優子を英国茶館に迎えに行った。
ほんの僅かな時間をできるだけ多くの話をすることに費やす。

英国茶館は日祭日も営業していたので互いの休みが重なることは殆どなかった。
たまたま彼女が日曜日に休めても、家の用事が入っていれば俺は彼女の生活を優先させた。

あっという間に優子が英国茶館に来て1ケ月が過ぎようとしていた。
彼女がこの店から離れていく日も近くなっていた。

当然この1ケ月間、俺の生活も様変わりした。
というより小学生のように早寝早起き、明らかに規則正しくなったのだ。
朝6時前に起きて仕事に行き、18時過ぎに優子を迎えに行く。
彼女を送ったその帰りに英国茶館に寄って12時過ぎには眠りに付く
という完璧なリズムが出来上がっていた。


このマンネリとした幸せな生活が永遠に続くと思いかけたとき事件は起こった。
端から見れば、俺はのぼせと言われても仕方ないほど優子のことで頭がいっぱいだった。
そのせいで、会社の連中からは付き合いが悪いとされていたが、
そんなことは全く気にならなかった。
会社のバーベキューパーティーやカラオケ大会などがあっても
品のない不細工な奴らと交流を深める気などさらさらない。
優子と過ごす一瞬の方が言うまでもなく圧倒的に大切なのだ。

だから、一平とも殆ど関わりを持つ時間などなかった。

それは8月25日の給料日だった。仕事を終えた俺は同じように優子を迎えに行った。
既に慣れた様子で自然に優子は俺の車に乗り込んでくる。
いつものようにたわいない話をしているとき、急に優子が真面目な顔をして言った。
「一平さんってどんな人?」その優子の言葉に当然俺は驚いた。
「どんな人って、よくわからんな。人当たりはいいと思うが、奴はホストだからな。」

「ホスト?そんな感じね。」優子は俺が一平に初めて会ったとき、チラッと顔を見たぐらいだった。
「何かあったのか?」
優子はしばらく考えてから口を開いた。

「悠子さんにタカさんには言わないでって言われたんだけど。今日目に隈ができてた。」
『隈?』俺には意味が直ぐにはわからなかった。
「青アザ。殴られたんじゃないかと思う。」
「一平にか?」俺は驚いて尋ねた。
「一平さんかどうかはわからない。悠子さん言わないから。でも一度や二度じゃないの。
いつもは化粧で隠してたから、もしかしてって思ってたけど、今日は隠せないくらい酷かったの。」

俺は一平に初めて会ったときのことを思い出していた。『ヒモ』と同じ臭い。
同時にそれが一平の仕業に間違いないと確信した。
ヒモという人種はその甘くやさしい顔立ちや素振りとは全く違って逆にM系の奴が多い。
女が自分の言いなりになっている限り、至れり尽くせりの異常に優しい男だが、
一旦自分の思い通りにならないと徹底的に暴力的になる。今で言うDVだ。
そして女性が従順さを示すとまた元の優しい男に戻ったり、
女が離れようとすると泣いて縋って謝ったりする。
常人には理解できないが、S系の女は母性本能をくすぐられ
『私がいないとこの人は駄目になる。』
などと勘違いし、風呂屋にでも身を投じかねないのだ。理屈では説明できない。

ヒモは、この手の女を何人も持って貢がせる。
俺はこういう男女の関係を何組も見てきた。

一平がヒモでないとしてもこの手の癖を持っている可能性は高かった。
俺は人を見る目に関しては勘がいいのだ。
『ふ~っ』と大きくため息をつく。かなり深刻な顔をした俺に優子は心配して言った。
「どうするの?」
「わからない。でもほっとく訳にもいかないな。」優子は益々不安な顔になる。
「大丈夫。心配しないで。」俺は優子を安心させるためだけに根拠無く言った。
当然優子の顔から不安の色が消えることはなかった。
「ごめん。今日はこのまま帰っていいかな。」
まだ7時を過ぎたばかり、二人の時間は十分あった。
「英国茶館に戻るの?」
俺は黙って頷く。
「悠子さん大丈夫かしら・・・。」
彼女も自分のわがままを優先させる女ではなかった。
俺はいつものところに車を停める。
「悠子さんのことお願いね。気をつけて。」
優子も別れを惜しむことなく素直に車から降りた。
優子の姿が家に消えると俺は直ぐに車を発進させる。
俺は1ケ月ぶりに優子と別れる切なさから開放されていた。

英国茶館には悠子と明美がいた。俺は無表情のままカウンターに座った。
悠子は眼帯でアザを隠している。
悠子が俺の方に動かないので遠くにいた明美方のが近寄ってきた。
「どうしたの?早かったね。優子ちゃんと喧嘩した?」
明美が声を掛けるが俺は悠子から目を離せなかった。
時折悠子はさじを取りにきたり俺の方に寄っては来るが、
俺に目を合わせることはない。
まじまじと悠子の顔を見入るが、それでも彼女からは完全に無視されていた。
他の客がいる手前今すぐ問い正すわけにもいかず、
明美が入れるコーヒーを飲んでいた。
そのとき、俺の近くの壁掛けの電話が鳴った。
悠子は近寄ってきて受話器を取った。殆ど俺の前で話している。
俺はコーヒーを飲みながら悠子の顔を見ていた。
悠子の表情が一変し、ただごとでない電話であることがわかった。

「・・・いえ、来ていません。・・はい、はい。あの・・・タカさんならここにいますけど・・・」
何故か俺の名前が悠子の口から出た。俺の顔を見て受話器を持ったまま俺に近づく。
悠子は目を大きく見開いたまま俺に受話器を差し出した。
「タカさん。社長さんから・・・。変わってって。」
その言葉に俺は驚いて、不安そうな顔でいっぱいになった悠子から
静かに受話器を受け取った。
「もしもし、タカですけど・・・」
「ああ、タカさん。よかったそこにいてくれて。」
「どうしたんですか?何かあったんですか?」俺は怪訝そうに尋ねた。
「そこに佐藤さん、悠子さんまだいる?」
「えっ?あっ、はい。」悠子は心配してか俺の目の前から離れなかった。
俺は座席を返し受話器の声が悠子に聞こえないようカウンターに背を向けた。

「一平はいないよね。」小さな声で社長は話す。
「えっ?ええ、来てないようですが・・・。」
「実は、言いにくいことなんだが、タカさん今日給料受け取った?」
「あっ、はい、頂きました。」
「よかった。実はその後運転手に渡そうと思ってた給料が12~3人分ほど金庫にないんだ。」
「えっ!」俺はしばらく意味がわからなかった。
「金がなくなるちょっと前、金庫の前で一平が何かしてたって他の従業員が言うんだ。」
一平が盗んだと言うのだろうか。俺が働いたのは20日間で20万円くらいだから、
12~3人分の1ケ月となると300万円を越える。
「無理なことお願いするが、一平は今日悠子さんのとこに行くと言ってた。
そこに来たら捕まえてくれないか。身体検査をしてもいい。」

『おいおいちょっと乱暴な話しになって来たな。一平が犯人と決まったわけでもないし、
盗ってたらここには持って来ないだろう。』と思った。

一応わかりましたと言って話を終えた。座席をカウンターの方に廻すと悠子はまだそこにいた。
悠子に受話器を渡す。悠子は受話器を持ったまま身動きせず俺を片目で凝視していた。
俺が話すのを待ってるらしい。

「何?何があったの?」我慢できずに悠子が言った。
俺はどう言っていいのか戸惑った。
「社長さんは始め一平は来ているかって聞いたの。部屋にいるんじゃないかって。
一平今日来るって言ってたけどまだ会ってない。大丈夫だから、いいから話して・・・。」

かなり難しかったが、給料がなくなったこと、一平が疑われていることを話すしかなかった。
悠子の見開いた片目から大粒の涙が溢れてきた。
そしてしゃがみ込むと声を出して泣き出した。
慌てて明美が近寄ってくる。
一旦悠子の背中に手を置いて悠子の様子を確認した後明美は俺をにら見つけた。
『おいおい、俺じゃないぞっ』と思ったが、勘違いされても仕方なかった。

お客は俺とは逆側の玄関の方にしかいなかったので話しの内容は聞こえていない。
やがて泣きながらも悠子は立ち上がり、明美に向かって『タカさんじゃないから・・・。』
と何とか容疑を晴らしてくれた。

「悠子。何があったんだ。」まだ泣きじゃくっている悠子に尋ねる。
「・・・盗ったのは、多分・・・一平と思う。」涙に咽びながら悠子は言った。

「昨日も夜中部屋に来て『金ないか!』って言われたの。
これまでも持ってるお金は全部あげたから・・・。
『もう、ある訳ないじゃん!』って言ったら殴られたの。
『金ないなら明日サラ金に行ってでも作って来い!』って・・・。」
そう言うとまた大粒の涙を流し出す。俺は悠子がしばらく落ち着くのを待った。

「以前はあんな人じゃなかったのに・・・。」悠子は必死に声を絞り出す。

『多分以前から、そんな奴だよ。』と俺は思った。

さらに悠子は泣きじゃくりながら続けた。
「『俺が殺されてもいいのか?』って一平何かに追われているようで、
お金がいるみたいだったの。
だから少しでも助けたくって・・・。でもホンともうないのよ。
仕方ないから今日サラ金で50万円作って来たのに・・・。」

『あ痛たたたぁ。そこまでやるか?かなり不味いとこまで行ってるなぁ。』
俺が心を入れ替え真面目に生きようとしても、
どうしても俺の周りにはキナ臭い話が寄って来るのだ。

神様の悪戯か?それぞれが持っている『人間の性』がなせる業だった。
 

ある程度予想していたとは言え、段々怒りが込み上げ腸が煮えくり返るように我慢ならなくなってきた。
昔からだが、俺の中に弱いものを苛める奴をどうしても許せない。それが女性となるとなおさらだ。
持って生まれたものか、母親からのフレージングなのかわからない。
俺は博愛主義者でもなく、女性を理想化している訳ではない。
どっちかというとバカな女にヘキヘキしていることの方が多いのだ。
しかし、相対的に女性は、尊い存在で守るべきものとしてある。
それは野郎の優位性や差別心から来ているのでなく、
本来男性の個性として持っている働きというべきものかもしれない。
悠子に対する個人的な感情があるからではなかった。
もし、見知らぬ女性であっても暗い夜道で強姦されているのに出くわしたら、
相手をを殺してしまうかもしれないと思うほどの憎悪感を感じるのだ。
日常でも女性をモノ化して扱い、それが当たり前の事だと信じて疑わない野郎にも我慢ならなかった。
女性は美と癒しの象徴として存在するべきものなのだ。

一平はやって来るのだろうか。来るなら相当の馬鹿だ。
いまの悠子に理屈をしこたま言って正気に戻すのは少なくとも時間が掛かる。
この娘がどう判断するのかそれは難しい選択だった。
少なくとも一平を愛しているのだろうから、彼の味方をする可能性が高い。

悠子を騙すつもりはなかったが、俺は一平から連絡があるか、
もし会ったなら社長に連絡するよう伝えてくれと悠子に言って英国茶館を出た。
俺の車がある限り一平は姿を現さない。
俺は一平がどこかで様子を伺っているかもしれないと考え、一旦シルビアを駐車場から出し帰る振りをした。
アパートまでの道を100mも行かずUターンして英国茶館の駐車場とは逆側の暗い物置の陰に車を停めた。
店の通用口と上の寮に上がる階段が見える。
20mほどの距離だ。刑事の張り込みのような感じで何となくワクワクして来た。

時間はまだ8時半。多分姿を現すなら店が終わる10時前後だろうと踏んだ。
何もしないで待つというのは気が遠くなるほど長くて退屈だ。しかも夜とはいえまだまだ蒸し暑い。
エンジンをかける訳にはいかないので窓を開けて涼を取るが気安めにしかならなかった。
かなり汗だくでじっとしていなければならないのだ。
昼の仕事のせいでうとうとしかけたとき物音がした。
通用口のドアが開き中からの灯りで人影が見える。多分明美だろうと思った。
中の電気を消さずドアを閉めたからだ。
ちょっと緊張が高まる。10分ほどして店のライトが完全に消え、またドアが開いた。
今度は悠子だ。ドアの鍵をかけ悠子の影が2~3歩動いたとき駐車場側の建物の陰から一つの影が現れた。
大きさから言って一平に間違いない。
二つの影は近寄って一瞬一つになったが、悠子が一平を突き放したのか直ぐに離れる。
慌てて一平の影が悠子に近づく。ちょっと言い争っている感じだ。
構わず悠子は足早に歩き出すが一平の手が悠子を掴もうとする。
また悠子はその手を振り払って寮の階段の方へ向かった。
タイミングは一平が階段をある程度上ったときだ。早すぎると気付かれ逃げられてしまうかもしれない。
俺は慎重に静かにゆっくり車のドアを開け、
身体を表に出すとドアを閉めずにフェンスに沿って静かに一歩づつ階段に向かった。
相手からは見えない。悠子の罵倒するような声と一平の懸命に謝る声が聞こえる。
彼らが俺に気づく可能性は低かった。
俺が階段の下に着いたとき一平は階段の真ん中ほどまで上がっていた。
『いまだ!』俺は素早く階段の上り口に身体を移した。
「一平!」大声で彼に声をかける。悠子を必死に追いかけていた彼は腰を抜かすほど驚いて素早く振り返った。
階段上の小さな照明が逆光になってその影が誰だか全くわからない。
しかし、相手には俺が分かったのだろう。一平は思いもよらぬ行動に出た。
手すりから即座に下に飛び降りたのだ。
俺も素早く一平の方に駆け寄り、走り出そうとする彼にラクビーもようにタックルを食らわした。
重なって前のめりに倒れると俺は後ろから羽交い絞めにした。
「タカさん!止めてエ!」すかざず悠子の叫び声がこだまする。
「タカさん?タカさんか?」即座に一平が声を絞り出す。
一平は抵抗するのを止めた。俺も少し力を抜く。
「何?何するんだよ。」俺だと気付かなかった振りを決め込むらしい。
俺は手を離して直ぐに起き上がった。一平もスーツを叩きながら立ち上がる。
俺たちは向き合うような形になった。
今度は一平の顔がおぼろげながらも見える。かなり緊張し怯えた顔だ。
「何の真似だ。一体どういうこと。」一平はさらにとぼける。
「ふざけんなっ!こっちの言うせりふだぁ!」俺はかなり強く言った。
悠子が俺に気付いたんだから、一平にわからなかったはずはないのだ。
一平は黙って固まっていた。
悠子が慌てて階段から駆け下りてきた。

「タカさん!一平は借金取りと勘違いしたのよ。」悠子まで一平を庇う。
『う~ン、果たしてそうだろうか?』
「会社のお金盗んだの一平じゃないって!」また悠子が叫んだ。
『盗ってても盗ったって言うわけないだろう』
「さっき悠子から聞いたが俺じゃない!事務所には5~6人いたんだぞっ。」
「悪いが持ち物全部出せ!」一平の言葉を無視して俺は言った。
300万円だから見た限り持っていそうにないが取り敢えずそうするしかなかった。
一平は渋々財布など持ち物をポケットから出すと両手を上げた。調べてみろと言う感じだ。
一平は金を持っていなかった。ちょっと行き詰る。
俺はたばこを取り出すと一平に差し出した。手を震わせながら煙草を一本取って口に咥える。
俺も煙草を咥え一平の方から先に火を着けた。
しばらく考えながら煙草を2~3回吹かす。

「別にお前のことはどうでもいいが、悠子を巻きぞいにするな!」
「俺が盗んだんならここには来ないだろう。」一平はふくれっつらをして言った。
確かにそうだ。あるとすれば理由は一つしかない。
それは一平が悠子を本気で愛してる場合だ。
「お前。車はどこに停めてきた?」
駐車場に入ってくる車の音やライトの灯りは見えなかった。
一平が用心して別のとこに停めて歩いてきたのは間違いなかった。
一平の表情が変わった。
「じゃぁ、車まで行こうか?」
「タクシーで来た。」あくまでもしらばっくれるつもりだ。悠子の表情が変わる。
彼女にはそれが嘘だとわかったのだ。

「悠子と何揉めてたんだ?」
「会社の金盗んだとか、昨日喧嘩したんで悠子まだ怒ってたんだ。」
「正直に話せよ。社長も警察沙汰にはしないと思う。俺からも言ってやるから・・・。」
一平は俯いて考えていた。
「だから盗ったのは俺じゃないって言ってるだろう。疑っている奴を信用できるか!」
一平が本当のヒモなら、こういう男はしたたかで警察に捕まっても
物的証拠が明らかにならない限り口を割らない。
女に貢がしたり、風呂屋で働かしたり、サラ金や或いは知り合いから
詐欺まがいに金を作らせたとしても罪の意識とかない。
同情して女を手放す事もないのだ。女が解放されるのは商品価値がなくなったときだった。
それと同じように金が必要だから盗ったのであって、みすみす獲物を手放すことはなかった。
出来心ではなく明らかに常習犯だった。

「盗ってないなら潔白を証明しろっ。でないと解決しないだろっ。」
俺は一平を問い詰めた。

しかし、事態は急変した。
駐車場の方からこっちにやってくる人の気配を感じた。
チェーン店の従業員ではなさそうだ。
人影は三人。スーツを着ているが異様な威圧感を漂わせながら近寄ってくる。
みるみる一平の顔が青ざめ恐怖に怯え出した。
悠子は一平の背中に身を隠しスーツの肘のとこを掴んで震えていた。

「一平チャン!やっぱり一平チャンだぁ。やっと会えたねエ。」
真ん中の男が厭らしい声で叫ぶ。
一平は目を見開いたまま身動きできない様子だ。
三人とも黒のスーツにノーネクタイ、直ぐに彼らが何者か察しがつく。『取り立て屋だ。』

「約束の期限を10日も過ぎてんだよ。毎回毎回うだうだ能書きたれやがって嘗めてんのかぁ!」
俺たちのとこに着くなり真ん中の男は一平に向かって罵声を飛ばした。
「いいえ、あの、これから持って行こうと思ってたんです。」
大柄の一平には似つかわしくない猫の声だった。
三人とも俺たちと同じくらいの歳で、まだ下っ端だろうが明らかにやくざだ。
一平がその気になれば相手が三人でも二人で何とかなるかもしれない。
この人たちは身体にいいことなど全くやってないので体力はない。
しかし、暴走族のように喧嘩に勝てばいいってもんじゃないのだ。

「ざけんなぁ!そんな金がどこにあるよ。あるんなら出してみろ!」
「いや、別のとこに・・・・。」
「ふん。また口から出まかせ言いやがって、色男はこれだからな。
俺たちを風呂屋の女と思ってやがんのかぁ?いつまでそんなんで騙せると思ってんだぁ!」
真ん中の男が一平に脅しをかける。

そのとき右の男の険しい顔が厭らしい笑みに変わって一平に近づいた。
「あらぁ、一平チャンの女ぁ?噂に聞いてたけどいい女だねエ。」
奴の目的は一平ではなく悠子の方だった。
そいつは一平の腕にしがみついている悠子に手を伸ばした。悠子の顔が益々引きつる。
「ホンとに別のとこにあるんです。嘘じゃないです。だからこいつには手を出さないで下さい。」
一平はちょっと動いてそいつの行く手を阻んだ。
「どうせそのうち一平チャン飽きちゃったらこの女、いつものように風呂屋に入れるんでしょ。
時間の問題だから一緒じゃない。」
そいつの話し方は反吐が出るほど気持ち悪くて我慢ならなかった。

「ちょっと待ってくださいよ。あんたたちが誰だか知らないけど、うちが先なんですから・・・。」
色々考えてた俺はこの手で行くことにして口を開いた。
三人の視線が俺に向く。
「何だぁ?お前?一平のダチじゃぁねエのかぁ?」真ん中の男が言った。
「こいつに貸した金取り立てに来てんです。」俺はとぼけて言う。
「どこの組のもんだぁ?」
「いえいえ、組のモンってんじゃないです。商いでやってるだけですから・・・。」
「ナンだとぉ?お前潜りで島荒らしてんのかぁ?」
「金貸しに島はないでしょ。店構えてんなら別ですが・・・。」
「サッサ消えろ。」そいつは顎をしゃくり上げて俺に言った。

「いやぁ~っ、こっちも3週間追いかけてやっと捕まえたんですから、そんな訳にはいかないっすよ。
俺の金じゃないし手ぶらで帰ったら、うちでも痛い目に合うのは俺なんっす。」
「トウシロがぁ!嘗めてんのかぁ?やくざ相手に揉めようってのかよっ!」
「いえいえ、そんなつもりはないっす。じゃぁ、俺仕事済ませて帰りますから・・・。」

そう言うと横にいた悠子のバックを引ったくり、中を開けてサラ金の封筒を取り出しバックを悠子に投げ返した。
「一平とやら、50万は返してもらったから後250万。用意できたら連絡してね。そんじゃぁ。」
そう言うと俺は何事もなかったかのように駐車場に向かって歩き出そうとした。
当然左側の男が俺の行く手を遮った。

「何のまねだぁ?」真ん中の男が驚いた顔をして叫んだ。
「えっ?この一平が返せないんで、昨日この女にサラ金で金作って来るよう言ってたんです。
連絡があったから取りに来ただけなんですけど・・・。」
左の男が金を取ろうと俺の方に手を伸ばした。俺はその手を払って後ろへ素早く飛びのく。

「ちょっと待ってくださいよ。あんたたちと揉めるつもりないんすから・・・。
こっちもまだあと250万あるんですよ。」
「50万くらいいいんじゃない。この女風呂屋に入れたら月500万は固いっすよ。」
右の男はまだ悠子を諦められず、ニヤニヤして悠子を眺めながら厭らしく言った。
「いや、ホンとにあんたたちに返す金別んとこにあるんです。」
一平は観念したのか本気で返すつもりに聞こえた。
「信用できるかぁ!」真ん中の男は一平に向かって叫んだ。
どうしようか迷ってイライラしてるみたいだ。
「この女連れて行きましょ。」右の男が急かす。

もし、本気で悠子を連れて行く気なら覚悟を決めるしかない。
一平がその気になるかは自信がなかった。
「勘弁してください。俺本当に払う気でいたんですから・・・。」
真ん中の男はその一平の懇願にしばらく考えてから静かに言った。

「ダメだな。その金も女も連れて行く。」
『ナンだとぉ!』と言わんばかりに一平の顔がみるみる怒りの表情に変わる。いまにも爆発しそうだ。

「ふざけなさんな。この金渡しませんよ。それにその女風呂屋に入れられたら
俺も残りの250万取れなくなるでしょ。こいつ切れそうだし。これ以上追い込んだらまずいっすよ。」
「うるさい!お前は黙ってろっ。」
彼らは三人でも俺たち二人がここで暴れ出したら押さえきれるか自信がないのだ。
体力的には遥かに俺たちの方が優勢だった。

「この一平から幾ら取れるかわかんないでしょ。うちは元金が200で総額300。そっちは幾らあるんです?」
「うちも300だ。」
「元金は?」
相手は返事に困る。ナンか経緯がありそうな気配だ。
「元金とかないんだよっ。」一平は言葉を荒げて言った。
「どういうこと?」俺の質問に一平も返事に困る。
「・・・迷惑料みたいなもんだ。」一平は言った。
「脅されてたの?」
「・・・・・」一平は黙っていた。
「こいつ組のモンの女に手を出しやがったんだよ!」右の男が叫んだ。
「お前酷でえ奴だな。」俺は一平に向かって言った。
「それにしてもそれで300万円とはまた法外な金額だな。」向き直って今度はやくざに言った。
「知らなかったんだ。」一平は静かに言った。悠子が驚いて一平から離れる。
「他にも女いながら、組の女に手を出して風呂屋に沈めて貢がせてたんだよっ!」
「違う!あいつが勝手にやったんだ。」一平のは言い訳にならなかった。
「またまた、色男ぶりやがって、その手で何人もの女に貢がせてんだろうがぁ!」

「もういいでしょ。じゃぁ、やりましょうか。」
俺は頭を両肩の方に交互に振り、手のひらに拳を2~3回ぶつけながら言った。
真ん中の男は驚いて俺を見つめた。

「ナンだとぉ?」左側の男が叫んだ。
「あんたらが、納得しなければ今から俺たち二人であんたらをボコボコにして警察に連れて行くんだよっ。
こっちは全うな商売してんだから・・・。こいつも女を連れて行かれるつもりはないみたいだからな。」
一平も腹を決めて身構える。相手が怯んだのがわかる。
明らかに形勢は逆転していた。
相手がドスや弾きを持ってない限り大抵の場合腕力では勝てる。

俺はすぐさま身構えた身体を解いて言った。
「じゃぁ、こうしましょ。あんたらも手ぶらじゃ帰れないでしょ。この50万渡しますから、
これで話つけてくださいよ。俺はこの一平とやらの金を取りに行ってみますから・・・。」
「50万で済まそうてのか?」左側の男はまだ戦闘モードのままだった。
「そんなの俺に関係ないでしょ。こっちは元手が200万掛かってんですから、
取れないかもしれないんすよ。あんたらは元手ないんだから損はないでしょ。」
真ん中の男は黙って俯く。面子がそれで保てるか考えているのだ。

「わかった。取り敢えず今日はその金で我慢してやる。」
そう言うと真ん中の男は左側の男に目をやり顎で指図する。
左側の男は俺に近づいて俺が手にした50万の封筒をひったくった。

「証文は?」俺はとぼけて言った。
「んなもんあるか!今度面見たらただじゃぁ済まないと思っとけ!」
そう言って金を受け取るとゆっくり振り返り元来た方に歩き出した。
左側の男は俺たちを一度睨み付け同じように振り返って歩き出したが、
右側の男は悠子を諦め切れずニヤけた顔をちょっと近づけ
『またね。』とばかりに悠子に手を振ってから二人の後を追った。


三人の姿が英国茶館の陰に消えるや否や俺はすかさず一平の顔を殴りつけた。
のけぞった所に腹に蹴りを入れる。
一平は『うっ』と腹を押さえて前かがみになった時また顔に膝蹴りを食らわした。
一平はもんどりうって地面に倒れた。

俺の行動は無意識だった。彼らとのやり取りで緊張していたのか
気づかなかったが、姿が消えた途端、瞬間湯沸かし器のように怒りが爆発したのだ。

「もう止めて!」黙っていた悠子が俺の前に立ちはだかった。
悠子が止めなければ怒りが収まるまで一平を蹴飛ばし続けたかもしれない。
悠子の肩に片手を置いて『もう大丈夫』というように息を吐き俺は一平に近づいた。

「一平もう観念しろよ。金は車にあるんだろ?」
その俺の言葉に一平は肘をついたまま顔だけ起こし仕方なく頷いた。
一平はゆっくり立ち上がり悠子を申し訳なさそうに見る。
悠子は明らかに怒りの表情で彼から視線を逸らした。

「俺は悠子とここを出て新しくやり直すつもりだったんだ。」言い訳のつもりだろうか。
「アホかお前、高々300万円で何が新しくやり直せるってんだよ。
金なくなったら悠子を風呂屋に入れるつもりで連れて行こうってのかぁ?」
「そんな訳ないだろう。俺は本気で悠子が好きなんだ。嘘じゃない。信じてくれっ。」
懇願するように悠子に向かって一平は言った。
悠子の目から大粒の涙が溢れてくる。しかし、首は大きく横に振っていた。

こんな奴の軽薄な想いがいつまで続くか分からない。
それが例え真実でも信用できる根拠はなかった。

「お前ねエ。自分の不始末ケツも拭けねえで、金に困ったら悠子にせびって挙句の果てに盗みか?
あいつら50万で諦めるかわかんないし社長の期待裏切ったんだぞっ。
そんなんで他で新しくやり直すだと?ふざけんじゃぁないぞっ!」
「あそこはどうせおしまいなんだ。」一平が話を変えた。
「ナンだとぉ?」
「仕事を無理矢理作るために採算度外視で単価下げて取ってたんだ。社長は素人だからまだ気づいていないけどね。」
「営業成績を上げてるように見せるためか?」
「仕方ないだろう。半年やそこらで、そんなに仕事取れるはずがない。」
もう一発殴りたくなった。
「取り敢えず金は返してもらう。これからお前がどうするか知らないが、悠子のことは諦めろっ!」
「あんたには関係ないだろ!」一平はしゃあしゃあと言ってのけた。
『この野郎もう一発殴ってやろうか!』
「悠子。俺に着いて来るよね。」一平は悠子に向かって言った。
悠子は俯いて泣いていたが、その言葉に顔を上げると目を見開き一平に近づくと
平手で思いっ切りビンタを食らわした。怒った目から再び涙が溢れ出す。

次の瞬間悠子は振り帰り階段を駆け上って自分の部屋へ消えていった。

悠子の心の痛手は大きかった。

俺は一平と彼の車のとこに行って金を受け取る事にした。車は英国茶館の向かい側の路地に停めあった。
300万円きっちりあったが一平の給料も見つけた。ナンと50万も貰っている。
一平は少々抵抗したが当然その金も頂いた。
一平に社長のとこに謝りに行くよう勧めたが、一平がその後俺たちの前に顔を現すことはなかった。

悠子が一平にどの程度貢いでいたかわからない。
しかし悠子の給料は精々20万程度だからたいした額ではなかったはずだ。
俺は悠子に一平が返した金だと言って100万円渡し、別に50万をサラ金に直ぐ返すよう言った。
金で悠子の傷が癒えるわけでも気が済むわけでもなかったが、人の金なら俺は気前がいいのだ。

残りの200万円は貰ってもよかったが、当然俺にそんな気が起こるわけがない。

盗られた額より100万少ないが、危ない奴に金借りてた一平の事情を社長に話し、
そのうち彼が返しに来るだろうと嘘を伝えた。一平を信じて任せた社長にも責任があるのだ。

当然200万円戻って来ただけでも社長は大満足だった。

 人は何のために生きている?俺はこの答えをずっと探して生きてきた。

それぞれにとって何が得で何が損なのか。
二つに一つのその狭間の中で揺れ動きながら、与えられた可能性を尽くし人は生きているのだろうか?

神が存在するのか分からないが、俺たち人間を造った創造主?
少なくとも何らかの意図があってこの世界も人間も存在するはずだ。
その確かにあるはずの自らの存在の意味を忘却したまま、
人はこの世界に放り出され盲目的に手探りで生きていかなければならない。

生命の次元、心の次元、魂の次元。少なくともこの3つの次元を人間は行き来しながら人生を生きている。
与えられた身体という生命を物質的に維持することを大前提としながら、
そのためだけに生きている人は殆どいない。
しかし成長する過程の中で、ある傾向に形作られたそれぞれの心は、
自らの身体を守ることを目的としながら、それを超越した力を持ってくる。
いつしか人はその心に縛られ、良かれと思って判断した行為が飛んでもない事態を引き起こしかねないのだ。

漠然とであったとしても人は不幸から何とか逃れるために懸命に日々生きている。
できるなら昨日より今日、今日より明日は少しでも幸せに近づいていたいと願う。
不幸を背負い切れないと思うから自殺するのであって、
幸せになったからと悔やんで死を選ぶ奴は滅多にいない。

それは普通の人でもやくざでも例えヒモであっても同じことだ。
誰もが自分のために良かれと思い続けて数限りなく判断した結果、
ある日気づいたらそうなってしまっていた。
しかもその結果は自分が望んだものでないことの方が圧倒的に多いのだ。

それは人生のいたるところに『人生の罠』が存在しているからだと思う。

魂の次元。それは初め『みんな仲良くできればいいのに。』とか『争いのない世界になればいいな。』
とか『誰もが受け入れられる世界であって欲しい。』とか理想のような形で心の中に存在する。
それは殆どの人の心の中にあった感情のはずだ。

しかし、人生を通してこの魂の次元に生きられる人はほんの一握りだろう。
『人生の罠』はそのための道標として存在している気がする。

一つの罠に嵌るたびに人生のハードルは少しづつ高くなっていく。
しかし、魂の次元に生きれるチャンスは人生を終える瞬間まで幾度となく用意されている。
だから、人生はいつでもやり直せる。自分を変えるチャンスはいつでも存在しているのだ。

この一平の場合、俺さえいなかったら金を持ったまま悠子と逃げて
新しい生活を始めることができたのにと俺を恨んでいたかもしれない。

しかしこのとき、彼にとっては明らかに人生を変える大きなチャンスだった。
彼が社長のところに行って『足らない金は働いて必ず返します。』と土下座して謝り、
頑張って会社を立て直すことができたなら、悠子といつか結ばれたかもしれない。

もっとも彼の場合、病的とも言える女癖や暴力癖などハードルは途轍もなく高かったので、
それを全うするだけの意志の力はなかっただろう。

誰にとっても辛い目や惨めになったり、阻害されたりすることは避けたいことだ。
しかし、大抵の場合辛く厳しい道を選択をした方がいい場合がある。

昔から言われている『迷ったら険しい道を選べ』は魂の次元、幸せに至る唯一の道かもしれない。