平安京で最初の市街戦『保元の乱』と跡碑を見る | 京都の春夏秋冬とプラスα

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NHKの大河ドラマ「平清盛」の第21回(27日放送)は『保元の乱』。794年に京都に都が遷されて間もない頃は蝦夷征討戦争や「薬子(くすこ)の変」が起こるも、以後350年間は文字通り平安な都であった。こうした平安の時代を画くする争乱への導火線となり、1156年(保元元年)の7月10日の深夜、後に「保元の乱」と呼ばれる一戦が始まった。この戦いの構図や様相から平安時代の最初の市街戦と言える。今では、戦いの舞台となった場所には当時の状況の面影を残すものはなく、その跡を記す石碑や説明板で歴史の一コマに思いを巡らせた。
保元の乱の展開図


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保元の乱の発端と構図 】
後白河天皇
の誕生と鳥羽法皇の死を契機に、朝廷内に異変が発生し天皇派上皇(崇徳)派の対立が深まり、そこに武士も巻き込んだ乱へと発展する。
      
         《天皇方》   VS  《上皇方》
朝 廷  : 後白河天皇(弟)   VS  崇徳上皇(兄)
摂関家  : 関白・藤原忠通(兄) VS  左大臣・藤原頼長(弟)
平 氏  : 平清盛(甥)      VS  平忠正(叔父)
源 氏  : 源義朝(長男)     VS  源為義(父・棟梁)


後白河天皇方の陣営・本拠地 】
□高松殿
(注)殿とは、ここでは「どっしりした大きな建物」をいう。
平安京左京三条三坊三町にあった醍醐天皇の皇子・源高明(914-982)の邸宅で、その娘の明子が住んで高松殿と呼ばれた。院政期の1146年には、鳥羽上皇の命で新造された。1155年には後白河天皇がここで即位し、1157年(保元2年)まで内裏となった。保元の乱(1156年)の際には、後白河天皇方の本拠地となり、源義朝平清盛らの軍勢がここに参集して白河の地へ攻め込んだ。
その後、平治の乱(1159年)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社・高松明神は、現在も「高松神明神社」として残る。
跡 碑
・所在地:中京区姉小路通釜座東入北側(高松神明社前)
・碑 文:〔南〕此付近 高松殿址 〔西〕寄付者 柏光定 〔北〕大正四年十一月 京都市教育会

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□東三条殿
平安京左京三条三坊にあった平安時代の邸宅で、藤原良房(804-872)が創設し摂関家一族に伝領され、藤原兼家(929-990)は東三条殿と称された。その後、邸は藤原道長に引き継がれた。二条通・御池通・新町通・西洞院通に囲まれた東西約130m、南北約280mに及ぶ細長い広さを誇っていた。保元の乱の当時は藤原頼長が住んでいたが、南隣の高松殿が手狭なため後白河天は頼長から東三条殿を接収し、こちらに移った。1177年には火災で焼失した。
跡 碑
・所在地:中京区押小路通釜座西北角
・碑 文:〔南〕此付近 東三条殿址 〔東〕城巽 〔西〕寄附者 円重寺住職 小山開 〔北〕大正四年十一月建立 京都市教育(以下不明)

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崇徳上皇方の陣営・本拠地 】
□白河北殿
白河上皇(1053-1129)の院御所で、南本御所に対して北殿や北新御所と称された。1156年(保元元年)7月に崇徳上皇が鳥羽殿から移り住み陣営の本拠地とした。保元のでの戦況に伴い、平清盛らの軍勢の手で火がかけられ焼失する。
跡 碑
・所在地:左京区丸太町通東大路西入南側(京都大学熊野寮敷地内・北西角)
・碑 文:〔北〕此付近 白河北殿址 〔西〕昭和十四年三月建立 京都市教育会

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【 乱の戦端・結末・処分から平治の乱へ 】
□戦端と天皇方の進撃
保元元年の7月8日、天皇方の軍兵が高松内裏の北隣に位置する頼長の東三条殿に先制攻撃を仕掛け、これを没収したことにより幕が切って落とされた。11日未明に天皇方の軍勢が進撃を開始。平清盛勢300騎は二条大路(地図での①⇒)を、源義朝勢200騎は大炊御門大路(現在の竹屋町通、地図での②⇒)を、源義康勢100騎は近衛大路(地図での③⇒)をそれぞれ東へ進撃し、白河北殿に攻め寄せた。
□天皇方の勝利と処分
上皇方では源為朝らが奮戦するも総崩れとなり、白河北殿に火がかけられ4時間程度の合戦で天皇方の勝利で終わった。崇徳上皇源頼長は一旦は脱出し逃亡するが、上皇は捕えられ讃岐(四国)に流され、頼長は途中で死亡する。
□平治の乱へ
保元の乱から3年後の1159年に、勝ち組内の武士(平清盛VS源義朝)の争いとなり、平氏が勝利し清盛の全盛に入る。


【 関連スポット:崇徳上皇廟所在地:東山区安井北門前通御陵前通上ル
保元の乱で敗者となった崇徳上皇は、讃岐(四国)に流されるが血書をもって京都への帰還を願い出るもかなわず、憤怒の姿のまま1164年の夏、46歳の歳で讃岐で死亡。上皇の寵愛が篤かった阿波内侍は、その遺髪を請い受けて、この場所に一塚を築き亡き上皇の霊を慰めたと伝わる。

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