受領名以外の官職のシリーズも、大宰府まで済んだ。
 あとは、令外官のうち、これまであまり触れなかったものについて。

・征夷大将軍(三位以上が通例)
 蝦夷を征討する大将軍。蝦夷(えみし、えぞ、など)は、古代における東日本以北に居住していた人々のことで、アイヌとの関連性が指摘されるが、諸説あるようだ。
 古代で有名なのは坂上田村麻呂。のち、武家の棟梁として源頼朝など幕府政権の長が任じられるようになった。南北朝期の護良親王(後醍醐天皇の子)もなったことがある。

・鎮守府将軍(四位~五位ぐらいか)
 古代に陸奥国に置かれた鎮守府の将軍。大和朝廷の勢力が広がるにつれて、鎮守府の場所も移動したのではなかろうか。
 坂上田村麻呂、大伴家持、藤原秀郷、平貞盛、源頼義、義家、清原武則、藤原秀衡など、古代からの有名人が名を連ねた。鎌倉時代には征夷大将軍がほぼ常設となり、こちらは実質的になくなっていたが、南北朝期に足利尊氏、北畠顕家などが任じられた。

・摂政
 天皇が幼少や女性など、政務に就くことが困難とされる場合に置かれた。天皇の代理人なので、摂政自身の官職がどうであれ、他に太政大臣がいようが最上位扱いとなる。推古女帝のときの厩戸皇子(聖徳太子)が日本での初めとされる。皇族に限られていたが、藤原氏の台頭以降は同氏に移った。
 なお、明治維新で律令制が終了した以降の摂政としては、大正天皇の病気による皇太子(のちの昭和天皇)の就任がある。

・関白
 成人の天皇を補佐する。摂政と同様、人臣の最上位だが、摂政と異なり天皇の代理者ではない。
 藤原氏の主流が就任し、同時に(藤原氏の)氏の長者(うじのちょうじゃ)となる慣例だが、のち実権は院(上皇や法皇)、武家政権(平氏や幕府)へと移っていった。藤原道長(彼自身は関白にはならなかったが)の子孫から出た五家が、摂政や関白になれる家系として、五摂家と呼ばれるようになった(近衛、九条、一条、二条、鷹司)。例外が、豊臣秀吉(最初は近衛家の猶子となり藤原秀吉として就任したが)と秀次。

・内覧
 天皇より先に文書を見ることができる役割。摂政や関白の権限のひとつでもあるが、摂関は公卿の「閣議」(陣定=じんのさだめ)には出ない慣例となったので、それを嫌った藤原道長は内覧宣下だけ受けて、関白にはならなかった。陣定の首座(一上=いちのかみ)として主導したかったと思われる。道長の兄・道隆(関白)が重病で職務を行うことが困難になった際、道隆の子・伊周が条件付きで内覧となった。

・遣唐使
 唐に派遣した使節。10回以上送られたが、中止の回もあり、回数には諸説ある。
 吉備真備が副使として、留学生などとして阿倍仲麻呂、最澄、空海などが有名。菅原道真も大使に任じられたが、唐の衰退などから見直しを建言し、そうこうするうちに唐が滅亡してしまった。