いよいよ京から遠く離れた役職に移る。

〇大宰府(だざいふ・宰府とも):外交・防衛、西海道九国(つまり九州本土)に加えて、壱岐、対馬、多禰(大隅諸島)を管轄。
 日本と直接交流のある「外国」は、歴史の一定の時代までは、ほぼ朝鮮半島や中国本土だったので、外交や防衛上、九州北部は重要な地域だった。

・大宰帥(だざいのそち・従三位相当)。
 初期は、有名人としては大伴旅人など。のち遙任(現地に赴任せず、都に滞在)が増えた。親王が名目上の帥で、実権は権帥(ごんのそち)、大弐(だいに)に移る。たとえば後醍醐天皇が親王時代に任じられた。

・大宰権帥:親王が名目上の帥になると、この権帥か、大弐が実質的なトップとなった。
 ただし、大臣クラスが失脚して流罪(左遷と書かれる場合もあるが)になるときもあった。菅原道真は、右大臣(兼右近衛大将)から員外権帥となった。藤原伊周も、こっちの不本意組。
 伊周の弟・藤原隆家は、中央政界に復帰してから望んで権帥となった(眼病で、唐渡りの最新治療が受けたかったとも)。任期中に、刀伊の入寇(女真族とみられる集団の侵入)の撃退という華々しい活躍を見せた。この職や土地が気に入ったのか、晩年に再度、権帥となっている。

・大宰大弐(正五位上相当)。
 本職と権帥とは、どちらかが任じられているときは、他方は任じられない慣習となったらしい。どっちにしても、大宰府の実質的なトップということになる。
 有名人としては、平清盛が平治の乱の前後の時期に就いている(遙任ではないだろうか)。また、大内義隆も、左京大夫や筑前守といった見栄えのする官位に替えて得ている。大内氏の勢力は中国地方と九州北部にまたがっていたので、特に九州側の支配を固めるのには都合のよい官職名と考えた可能性がある。

・大宰少弐(だざいのしょうに・従五位下相当)。
 これは、少弐氏が有名。平氏側の武藤資頼が、源頼朝側に投降し、のち大宰少弐に任じられた(たぶん、当時の御家人としては異例)。武藤氏は武蔵系の藤原氏(だから武藤氏)だったが、その子孫が大弐を名字にし、九州で勢力を維持した。