祖父が亡くなったは、私は高校2年の時でした。脳卒中で倒れて3年でした。

遺産相続の話は、もめにもめて、相変わらずの展開の中、私は大学に合格しました。

国立大学でしたので、当時は年間授業料144000円でしたので、大いに助かりました。

大学受験は両親が準備してくれていました。アルバイトもできたので大丈夫だったのですが、時代の流れでしょうか。父の鮮魚の行商は、厳しさを増していきました。スーパーの進出があり、思うように売れなくなっていたのです。

 

父の魚は近海物で、鮮度が良いのですが、価格もそれなりに高いものでした。

現金商売ならばよかったのですが、古いなじみのお客さんがほとんどでしたので、掛売が多く、盆と正月前に、まとめて支払ってもらう方式でした。

売ってくるのですが、手元に現金はありません。そして、父を困らせたのは、なじみの客が、売掛の代金を支払ってくれなくなったことです。仕入れの支払いに困るまでになっていました。

 

家から3時間余りかかる遠いところまで、集金に行っても、居留守をつかわれたりしました。

祖母の横暴などで心労が多い中で、商売に陰りが出たことは、つらかったと思います。酒の量が増えたことを覚えています。母は、パートで家計を支えました。

 

そして、父は、たまたま自分名義になっていた、なけなしの土地を売って、妹を大学に行かせ、生活をきりつめ維持したのです。

しかし、母を病魔が襲います。

 

母はがんに侵されていたのです。若いころから、寝る間も惜しんで働いていた付けが回ってきたと思います。最初こそ、手術が成功したものの、再発して帰らぬ人となってしまいました。享年54歳、苦労ばかりの人生でした。

 

病院で最期を看取ることができたのは、私だけでした。まだ暗い夜が明ける前でした。父がトイレに行っているとき、私の名を呼び、そのまま息が途絶えました。そして、葬儀となるのですが、それが、私の誕生日でした。深い因縁を感じました。

 

母の死でまた、家督継承問題が起きるのは、必至でした。もちろん、遺産相続問題は一切解決していませんでした。母の死で、葬儀で親戚縁者が集まりますから、その問題は避けて通れないわけです。

 

そして、その家督問題は、私にまで、影響を及ぼしていたのです。父の問題ではありましたが、田舎ですので、誰が、家を、先行きついでいくのかが、常に問題となりました。長男の私にとっては大きな問題でした。大学生になったころから、常に悩み、考えておりました。

いろいろな人に相談するのですが

「どんな困難があっても、家を継ぐことが大切」

どれだけ言われたことでしょう。

 

しかし、問題だったのは、相続問題は、もはや、裁判で解決するしかない状態までなっていたのですが、父は裁判までする気持ちはなく、また、ほかの兄弟や祖母もその気配はなく、解決する気配は全くなかったのです。

 

私に決定権はありません、手出しできません。本当に解決できるのは、縁起でもないですが、直接、私が関与できる父の死後ということになります。それまで、祖母や面白がって何だかんだ関与してくる人たち、盆や正月のけんかと、付き合わねばなりません。

 

母は、私の将来について心配してくれていました。家督を継ぐことで、苦労することに懸念を持っていました。がんになってからは「ほかの土地で、静かに暮らしたい」といっていました。

この願いをかなえるために、土地を買い、家を建てる計画をしていたのですが、間に合いませんでした。

 

この母の思いを受けて、闘病中、私は、母方の叔父そして叔母(豆腐屋の母の姉)、父、兄弟と相談して、わたしが家督を継がないことを決めました。母が亡くなった日、そのままでは、先祖の墓に入ることになるため、私は、叔母と公営の霊園に出向き、その場で墓地を契約しました。そのため、母は、私が契約したお墓に入ることができました。これで、完全に因縁を断ち切ることができました。

 

墓地を契約後、即座に家に戻りました。「墓があり、その墓に母を祭る」と、私は葬儀の準備をしている親せきなどに告げました。異論を唱える人は、わずかにいましたが、受け入れられました。私は生まれ育った故郷を、完全に後にしました。

 

子供のころからよく面倒を見てくれた、遠縁の叔父は

「これでいい、これでいい、それにしても、立派になったなあ、嬉しいよ」

賛同してくれて、喜んでくれました。

 

ここで、往生際が悪かったのが、祖母でした。

「ここを本当に出ていくのか、誰があとをとればいいのか」

こう言われたので

「そんなもの、知らないよ、あなたがすればいいでしょう、100まで頑張りなさいよ」

私は吐き捨てるように言い返しました。

「そうやのう」

さすがに、肩を落として、震えていました。

言い過ぎたのかもしれないですが、積年の恨みから、止めることはできませんでした。

これで、完全に一区切りつきました。

 

その後、月日は流れ、遺産相続問題は何ら進展なく、父は76歳で亡くなり、母とともに、霊園の墓でお祭しています。

前述したとおり、父の死後、私は裁判所で「遺産相続放棄」の手続きを完了しました。

 

父が亡くなり、わたしに相続権が回ってきたわけですから、裁判などやり切れば、それ相応のお金を得ることはできたかもしれないですが、家督を継がない以上、私が手にするべきものではありません。私の兄弟は、ちなみに相続放棄はしておりません。現在、地元で生活しているとのこと。それぞれの考え方で良いですからね。

また、いくら裁判といっても、またまた、どろどろした人間たちと対峙せねばなりません。放棄して正解だったと思います。放棄したおかげで、昨年まで何にも言ってくる人はいませんでした。相続放棄していますから、何も言うことはありませんからね。おだやかに暮らしていけることが、いかに幸せであるかを知りました。