祖父が、どぶがつまったので、前の道路を掘っていました。かなり時間がたっているのに、祖父は、全然家に入ってきません。そこで、私は様子を見に行きました。すると、祖父は道路わきの大きな石に腰かけたまま、眠るように座っていたのです。

 

「じいちゃん、じいちゃん」何度読んでも全く動かず、反応がありません。そこで、急いで家に戻り、家にいた祖母を呼びました。脳卒中でした。救急車を呼びました。農作業をしていた父と母を私は呼びに行きました。

 

その後、長期にわたり祖父は入院、しばらくして意識は戻りましたが、言語障害で言葉は「あー痛い」しか出ません。もはや、会話など意思の疎通は全く不可能となりました。祖母は病院で寝泊りして看病となりました。父と母は祖父の分まで家業に没頭しました。祖父の入院費など治療費もすべて負担していました。

 

こういう父と母の努力を、祖母は感謝どころか、完全に無視し、あだで返します。祖父の見舞いに来るほかの父の兄弟に、祖父の治療費を出させ、懐に入れていたのです。父がすべて治療費を払っているのに、うそをついて、父を貶めていたのです。父が医療費の領収書を、ほかの兄弟に見せたことで、この問題は何とか収まりましたが・・・。

長期入院後、祖父は退院して、自宅療養する運びとなりました。もちろん、父と母は、家で世話をすると決めていました。

 

しかし、祖父は退院しても、家に戻ってくることはありませんでした。父が知らないうちに、ほかの兄弟が、祖父所有の畑をつぶし、平屋の家を建ててしまったのです。父は、親せきが新築祝いを持ってきたことで、初めて気が付きます。距離が離れているとはいえ、同じ町内に建てたものですから、町内中の格好の噂話、批評の的になってしまいました。

 

ひどかったのは、実家に置いてあった祖父と祖母の荷物を、父のほかの兄弟が運び出した時のことです。荷物を運び終えると、荷物を出した後を片付けることはせず、散らかし放題にして、立ち合った母に一言も言わず、立ち去っていきました。余りの仕打ちに、母は腰が抜け、号泣していました。

 

しかし、これで、祖母の横暴は終わりませんでした。(その④へ続きます)

 

その後、あろうことか、祖父が生きているのに財産分与の話が始まります。

新しく建てた家に、祖母と叔母、祖父で生活を始めてからは、この話でした。

祖母は、祖父が亡くなった時には、自分にも権利があると主張しだしたのです。

他の兄弟は、祖母の味方で、父は常に一人で、苦境に追い込まれました。

農業で生計を立てていた父ですから、農地など相続できず、祖母や兄弟に奪われてしまえば、生活自体が破綻します。今思えば寄ってたかって、父を殺しに来たと思います。長男として精神障害のある妹の面倒を見て、そして、兄弟を支えてきた父を追い込んでくる祖母の醜さには呆れてしまいました。

 

それ以後、盆や正月に集まることがあると、この話になりました。

9人兄弟の誰一人、引かないので、いつも、最後は大喧嘩になりました。

親戚の長老も心配して話し合いに加わってくれるのですが、話し合いは進展しませんでした。

「挙句の果てには「あなたは関係ないから口を出すな」と長老にいう人までいて、もはや、どうにもなりませんでした。

 

これだけもめたのですが、誰一人として、裁判ということにはならず、未解決の状態が祖父の死後、ずっと続くことになります。結局、父の生前はそのまま解決せず、形としては、父が管理していたので、守り切り、自分の意志を通したということになるのかもしれないですね。そして、現在に至っているわけです。

遺産権利者である父の死後、私は、遺産放棄の手続きをしましたので、何も言ってきませんでしたし、無縁・無関係となっていたのです。昨年、新展開となりましたが、そのことは、改めて、後ほど、書く予定です。