黄色い隊長  北アルプスの秘境雲ノ平山行 番外編 1963年愛知大登山隊の遭難事故 | 武蔵野台地調査隊

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   薬師岳の夕焼けを望みながら遥か昔、1963年に起きた、愛知大山岳部遭難事故に想いをはせた。この事故を詳しく知ったきっかけは、今年(2019年)の春ごろに書店で見つけた薬師沢小屋のスタッフ、やまとけいこさんの「黒部源流山小屋暮らし」にそのことが書いてあったことだ。ネットでも詳しく調べてみた。ユーチューブには当時のニュース映画がありました。
  昭和38年の正月直前の大晦日に愛知大山岳部13名は折立から太郎平小屋へと向かう。この時大寒波が北陸地方を襲った。謂わゆる三八(サンパチ)豪雪の到来だったのだ。この年の夏には黒部ダムが完成、翌年は東京五輪、そんな時代です。
  結果的にこの13名全員が遭難死するという極めて悲惨な事故となった。事故後に愛知大学が発表した調査レポートに詳しい遭難の経過が書かれてている。愛知大より1日遅れて12/31
に、日本歯科大のパーティ(6名)も太郎平小屋に到着。翌元日は地吹雪で終日足止め、翌2日早朝、先に薬師岳に向けて出発したのは愛知大だった。彼らはまず登頂に際して途中にベースキャンプを設営した(下地図の)愛知大遭難碑の地点)。その後、後発の日本歯科大が愛知大とこのベースキャンプで遭遇し、追い抜き、その後なんとか登頂を果たした。愛知大は日歯大を見て後ろから続いて追いつくも、激しい吹雪のために頂上から300m手前で断念して引き返したようだ。日歯大は悪天候のままで下山するが愛知大と会うことなく、太郎平小屋までどりつく。居たはずの愛知大がキャンプにも太郎平小屋にも姿がなく消息を心配した。この頃愛知大は設営したキャンプにたどり着く手前で誤ってコース外の東南尾根に迷い込んでしまう。このまま13名全員が凍死する大惨事となった。下の地図で山頂下の「ケルンあり濃霧時注意」の箇所が尾根の分岐点であり、猛烈な吹雪のために誤って東南稜の方に迷い込んだようだ。2650m三角測量点があり、本人達が残した記録によればこのあたりで1月4日まで2日間ほどビバークして生存していたようだ。
      
 その後の遭難者の捜索も悪天候のため難航をきわめ、1月末には全員絶望と判断され一旦捜索が終了。最後の1人の発見は、父親の執念の捜索によって、晩秋までかかったそうだ。
 あまり知られていない事だが、登頂を果たした日本歯科大も、難なく帰還したわけではなかったそうだ。薬師岳から太郎平小屋までの下山時には、3度までも進路を見失い、その度に偵察を出して凌ぎ、太郎平小屋に帰着には登頂から4時間半も要し、なんとか辿り着いたのだった。記録によると日歯大も下山には上りの2倍を要しており、朝より吹雪が強まったためと思われる。
 翌3日は地吹雪で動けず。4日は食料が尽きるため太郎平小屋からの下山を決意したが、折立までの下りやその先もたいへんな吹雪に見舞われて命からがらの悲惨な状況だったとのことだ。三八豪雪では下界でも200人以上が犠牲になったそうで、大寒波だったことがわかる。
遭難の原因については各所で様々に分析されており、そちらに委ねたいと思います。
改めて遭難した愛知大生13名に哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。