ちょっとくさい話 ~ 滝山団地 白山公園の昭和史  | 武蔵野台地調査隊

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武蔵野台地の湧水と北アルプス中心の登山日記です

 

西妻川は川としては短く、黒目川に注ぐ支流です。しかし、川の規模のわりには源流である白山公園は広く湧き水があちこちにみられます。上の画像は1974年の白山公園です。水路が今とは少し違うようです。

 

 これまでの調査から滝山団地が建設され地盤を造成して均したため、最上流部が埋めたてられてしまいました。かつてこの辺りは、「かしならし」とよばれていたそうです。この語源は水の湧き出す所がたくさんあり、谷頭(こくとう)がどこなのかわからない、カシラ無しから来ているとのことです。

「第1回 語ろう!東久留米」という講演会で昭和30年代後半ごろの様子が、語られています。講演者は柳窪出身の野崎前東久留米市長さんで、この講演会を記録した資料が図書館にありました。当時柳窪には小学校がなく、白山公園付近を通過して所沢街道付近にできた分校に通ったそうです。
柳窪には都道東村山朝霞線なる道路が通過していましたから、その道を通われていたようです。まだ滝山団地ができる前で、白山公園付近は西妻川上流部の谷頭部だったかと思われます。イメージは今の白山公園から南側に段々と谷地形が薄れてデイリーストア付近で平らになっていた感じです。カシラ無しですからハッキリとしない谷地形だったかもしれません。
当時の地形図と航空写真で振り返ってみます。
 
 

 戦後から昭和30年代、日本はゴミやし尿処理の過渡期でした。いまの白山公園のあたりにはゴミやし尿が投棄されていたそうです。特にし尿は化学肥料が使われるようになり、肥料として使われなくなったため、行き場がなくなったのです。野崎さんの話では、通学時に通りかかると巨大なドブネズミをよく見かけたそうです。また、前沢方面の子供たちは、かしならしには近づいてはいけないと言われたため、柳窪方面に足を伸ばす人はあまりいなかったそうです。

 

当時の白山公園付近を拡大して見てみましょう。昭和36年の白山公園付近です。

 この画像からは起伏がわかりませんが、きっと谷地形なのでしょう。

 野崎さんらが通学されたと思われる道路脇に怪しげなる広場が見えますね。矢印のところです。

 多分ここがゴミ捨て場でしょう。周辺自治体から受け入れていたそうです。

 

しかし、このような話は、白山公園だけでなく全国、あちこちにあったのです。

清瀬なんかは駅前にゴミ捨て場。東村山は駅の近くに肥の集積所があり、電車で輸送してたとか。

 

かなり臭い話ですが、とても参考になる映像がyoutubeにありましたので、是非ご覧ください。

 

 

映像のナレーションの中に「すべては水に流してしまおうということですね」という名言も登場。

白山公園でも湧水に混ぜて地下にも浸み込ませながら下流に流し、自然の力で浄化だとか苦しい理屈をつけていたのでしょうねー。

戦後しばらくは大変な時代だったんですね。この様な臭い話はあまり伝承されません。海洋投棄などもひどすぎますな。拙者が幼少期に住んでいた団地は水洗トイレでしたが、外に汲み取り槽がありバキュームカーが来てました。その匂いたるや、脳裏に強く焼きつきました。

また、子供のころ湘南海岸でも河口付近は入るなと言われたし、海も汚いと言われていましたが、上記の映像を見ると深く納得できますな。川もドブ臭がして水には入るなと言われてましたが、遊んでましたね。余談ですが昔の子供は汚い事ばかりしていたのでバイ菌に免疫があるのでは?

 

さて、白山公園はその後滝山団地ができ、処理場もできたのでゴミやし尿から解放されたかと思いますが、下水道整備はしばらくは整わず、生活排水は流され西妻川もドブ川でした。楊柳川などもですが、臭いので住宅地ではコンクリートの蓋がされ暗渠の区間もありました。黒目川やその他の川だって例外ではないです。

 

今のような清流が復活したのは、下水道が網羅され下水処理場が完備したおかげです。それほど昔の事ではありません。本当に最近は湧水が復活して良かったなと思いますよね。