1931年に台湾の嘉義農林学校が甲子園に初出場し、快進撃の末、準優勝しました。
嘉義農林学校 野球部は1928年に創部され、
弱小チームでした。
愛媛県の松山商業出身の名監督 近藤兵太郎が翌朝嘉義農林学校に赴任し、監督となりスパルタ教育の末台湾代表として甲子園に出場するまてに育て上げました。
武士道精神野球として、精神7割、技術3割と言う考えだったそうです。
とでも厳しい監督でしたが、野球に対する熱い思いと愛情ある方だったそうです。
嘉義農林は、
1931年に甲子園に初出場、
その後1933年、1935年、1936年にも
甲子園に出場しています。
そして嘉義農林の野球部のOBは卒業後台湾野球チームの監督やコーチとして選手の技術向上に尽力し、
現在の台湾野球の礎となったと言う事です。
近藤監督は戦後日本に引き揚げたのちは、
故郷愛媛県の新田高校から監督の誘いがあり
58歳にはなっていたが、監督を引き受け昭和25年に初代監督に就任しました。
また嘉義農林の監督になる前は、母校の松山商業で監督をしていたのですが、その教え子に
藤本定義と森茂雄がいます。
藤本定義は早稲田大学で活躍し、後に巨人軍の監督になりました。
森茂雄は松山商業の監督となり甲子園で優勝。
後に大阪タイガースの監督となりました。
嘉義農林の呉波は甲子園に3度出場し、
卒業後はプロ野球選手となり、阪神と巨人で活躍しました。
この近藤監督の教え子は3人とも日本の野球殿堂入りを果たしており、
甲子園歴史館に名前が刻まれています。
なので、そんな素晴らしい選手を育てた近藤兵太郎監督が野球殿堂入りするのは当然の事だと思います。
台湾野球殿堂入りしたのはとても喜ばしいことですが、是非日本の野球殿堂入りも果たして欲しいと切に願います。