終戦後、台湾から日本へ引き揚げた日本人は、

軍人軍属・一般邦人合計 約48万人とも言われています。



(引き揚げの資料より)


[第一次引き揚げ]

(S21年2月〜S21年4月末)

一般邦人は基隆港 高雄港 花蓮港から引き揚げ。

引き揚げ者   合計28万4105人


私の父家族はこの第一次引き揚げの時で、

引き揚げ書には、昭和21年3月9日 基隆港より
出港とあります。

そしてなんと1週間もかかって、和歌山県田辺港に
入港。

過酷な長旅です。


[第二次引き揚げ]

(昭和21年10月〜12月)

基隆港より出港。

引き揚げ者 1万7099人



[第三次引き揚げ]

(昭和22年4月〜5月)

橘丸などが基隆港より出港。

引き揚げ者 3205人


[第四次引き揚げ]

(昭和23年5月)

海王丸が基隆港より出港。

引き揚げ者 380人


[第五次引き揚げ']


(昭和23年12月)

海王丸が基隆港より出港。

引き揚げ者 266人




[第六次引き揚げ]

(昭和24年8月)

日本丸が基隆港より出港。

引き揚げ者 223人



第六次引き揚げ以降は少人数で引き揚げとあります。



約48万人もの日本人が、台湾で築き上げてきた全財産を全て没収され、
わずかなお金と身の回りのもののみで強制的に日本に引き揚げさせられた事は
さぞかし残念無念の思いだったと思います。


引き揚げの時は、アメリカが貨物船のリバティ号を100隻貸与される事となりました。

リバティ輸送船(貨物船)

全長         125.3m
総トン数       7180トン
全巾         17.2m
航海速度       11ノット
引き揚げ時の乗船員数 3500人

11ノットは時速約20km

とても遅いので、基隆港から和歌山の田辺港までは
7日間もかかったそうです。

リバティ貨物船にには、積めるだけ乗船させられ、
船内のスペースは1畳に3〜4人割り当てられ、
足も伸ばせないぐらい狭かったと。

重油の匂いと船酔い、伝染病などに苦しみ
乳幼児や高齢者などは祖国を見る事なく
亡くなった方も多かった。

そして、その亡くなった亡骸は
水葬にされたと言うことです。

食事は1日2食
お粥の様なもので、味はとても不味かったと。

なので、皆だんだん衰弱していったそうです。