不幸な人・不運な人を見て、「あぁ、自分はなんて恵まれてるんだろう」なんて思わない方がいい、かも知れない。

思っても、思わなくても、どっちでもいいのだが、自分は幸せだなんて思ったときは、たいてい不運・不幸がすぐ降りかかってくるから。


塞翁が馬の話のように、この世において何が良くて何が悪いのか、何が幸せで何が不幸せなのか、なんて、人間には本当にはわかり得ない。

一見、すごく不幸に思えるようなことも、実際のところ果たして本当にそうなのかどうかわからない。


幼い子どもが早くに亡くなっても、長生きしている大人の方がより多く人生の苦難 に苛まれ、大局的にみるとどっちがいいことなのかはわからない



ところで、ここから本題だ。


幸せだと感じた時に降りかかる不幸の警告は、誰のしわざなのか?

一体誰が何の為に発しているのか?



悪魔か?

今まで幸せだったのに不意に天国から地獄に落ちるような、通常よりもショックの度合いの大きな不幸に見舞われる人間の嘆きを悪魔が面白がっているのか?

それとも、神の仕業か?人間の成長のためのショック療法として試練を与えているのか?



自分の人生に恵みを感じ感謝の念を抱くような時に不運はやってくることが多い。

まるでヨブ記のように、そういう殊勝な人間は悪魔から妬まれるのかもしれない。


もしかしたら幸せだと思ったとき、そんなのは聖霊が幻だといましめるために、もしくは悪魔があざ笑うかのように、不運な出来事をもたらすのかも知れない。とくに、個人が自身の幸せだけをしみじみ感じているときに。


自分だけ幸せを噛みしめるのではなく他の人にも熱心に働きかけ社会全体に貢献・還元するような幸運な道を進んでるときには、悪魔は何もしてこない。悪魔にとっては社会全体が勘違いした方が、むしろ滑稽に見えるのかもしれない。



ここで逆のケースを考える。


とても幸せな人を目の当たりにして、自分の苦しい人生を嘆くとき。⇨そのまま想定内の苦しい人生を歩む。


とても幸せな人を目の当たりにして、自分の人生の苦しみに安心するとき。⇨思わぬ幸運が舞い込み、心が乱される。


とても幸せな人を目の当たりにして、時々ささやかな幸せがある自分の人生に感謝するとき。⇨思わぬ不運が舞い込み、やはり人生苦しいと目を覚まされる。