TVを見たり夢を見たりするのは、受動的なものだ。
ただ与えられた刺激に感情的な反応を示すだけだ。もちろん、自分だったらこうするのに・・・と思うこともあるけれど・・・(夢の中では、そういう意志すらもないように思う・・・自分で考え、どうしようかあれこれ悩む間もなく、本能的に行動している、のが夢だ)


TVを見たり仕事か趣味か何かに熱中していたり、そういう何かにとらわれている状態、ではない暇な時、何をしたらいいのだろう?とふと考えるものだ。

その時こそ、人は能動的になれる。もちろん、仕事をしている時どうするべきか判断を迫られている時も能動的になっているとは言える。しかし、それもやはり仕事のことで頭が占められ、本当の自分ではないだろう・・・というか、あくまでも、仕事という環境・刺激に反応して考えているだけだから、やはり夢みたいに受動的な状態と言える・・・


前にも言ったが、祈っている時の意識というのは、刺激が何もない時の自由な状態と言えるのではないだろうか?
もちろん、苦境に立たされ、どうすればいいのか焦っていて、藁をもつかむ思いで、必死な状態の時は、やっぱり夢の中のようにただ環境に反応しているだけの受動的な状態だ。

何もない静かな時に、祈っている人は、能動的な意識の状態のように思う。



人は、日々の生活の中で、仕事に家事に育児に趣味に暇つぶしに、いろんなことに熱中しているものだ。眠っている時でも、夢の中で夢に没頭して過ごしている。
そういう時の意識の状態は受動的なものなのだ。

唯一、自由で能動的で、つまり自由意志になれる時というのが、差し迫った危機のない時で、とくだん何もしていない、とくべつ何か考えなければいけない状況ではない時の意識だ。


そういう時に、祈る。
そういう時にこそ、祈る。
そういう時を自分で作って、祈る。


聖書で、マルタとマリアの姉妹の話の中で、もてなしに忙しくしていたマルタを諌めてイエスが言った言葉「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。」で、マリアのように、神を求める気持ちが一番大切なのだろう。マタイによる福音書にある「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 」という言葉もそうだ。

もちろん、仕事や家事など、人間の生活において、やらなければいけないことはたくさんある。そういう時に、仕事や家事を放っておいて、夢想ばかりしていたらまずいだろう・・・

日中はやるべき事をこなしつつ、多忙な中でも静かな祈りの時間を持ち、聖書に問いかけ、自由な意識の状態を持ちたい。
かつ、眠って夢を見ている時に、夢の状況に左右されずに、神を想い、祈るような自分になりたい・・・



と、前置きはここまでにして、ここから本題に入る。



独り静かに考える夜。将来への不安や明日どうしようかなどあれこれ悩んでしまいがちだ・・・
しかし、それは、夢の中と同じだ。
沸き起こる不安焦燥に駆られて、左右されて、心配事をしているだけだ。
そんなのは、本当の自由な自分ではない。

自由意志としての真の意識の状態は、自分のことを抜きにして、あるいは、自分に関係する家族や知人・友人のことを抜きにして、もっと言えば、自分の属する組織、社会、国、この世界を抜きにして、ただ単純に他者を想うことなのではないだろうか・・・

山賊に襲われた旅人を見たサマリア人が、その旅人を助けた時のように、自分の利益にならない他者を想い自由意志で行動したように。得にならないだけでなく、敵に対してすら愛を持てとイエスは言っている。

すなわち、自分の関係する他者にどうこうではなく、自分を抜きにして他者を想うことが大事なのではないだろうか?

他者とは、神のことかもしれない。
自分が不幸な境遇に生まれ困難多き人生を神に不平不満をぶつけるのは、そういう意味で、本当に他者(神)を想うことにはなっていないのだ。

ヨブは、神に抗議した。ヨブは確かに義の人であったが、神は諌めた。関係ないように思えることだが、神は自分の偉大さをヨブに説教した。ヨブは神が間違っていることをしているとか、神に○○すべきだとか、そういう不平不満をいっていたのだが、神の声を実際に聞き、神の存在を間近に実感し、悔い改めた。神の説教は、ヨブの問いに無関係な内容であったが、ヨブは自らの言動を悔いた。
何故か?
ヨブの抗議・不平・不満は、全部自分に関係する事であって、本当の意味での神中心ではなく、自分中心の考えだったからだ。


他者(神)のことを想う時、それは自分のことを一切抜きにして想わなければいけない・・・


もちろん、人には、自分という存在が何故あるのか?という根源的な問いが常に付きまとう。自分を中心にして人は物事を考えるわけだ。
自分の存在しない、どこかのパラレルワールドのことを考えていても仕方ないのだから。

しかし、自分がこの世界にいるということは、この世界を想ってあげる存在として自分が必要とされているということを意味しているかもしれない。そんなの他の誰かにやってもらいたい、とか、他にも人は大勢いるのだから自分なんか必要ないだろう、とか不平が出てくるかもしれないが、他でもないこの自分が必要とされていることをもっと自覚してもいいのかもしれない・・・

まるで、子どもに対する親のような心境で・・・
親は自分のことよりも、子どものことを想う・・・何故、自分のもとにこの子が誕生してきてくれたのかわからないが(子どもを作るという行為の結果であるという単純な話ではなく、我が子として生まれてきてくれたこの子の魂に対して何故自分のもとにこの子が来てくれたのかを不思議に思うわけであるのだが)、とにかく、この子の人生に自分のすべてを捧げたいと思う。
子どもが成長して反抗期になったりすると自分は子どもに必要とされていないと自信を失う時もあるだろうし、親はなくとも子は育つなんて言葉に自分の存在は無価値だと思ってしまうこともあるだろうし、子どもが不幸な状況になれば子供を幸せにしてあげられなくて親失格だなどと落ち込むだろう・・・しかし、そうは言っても、子には親が必要なのだ。我が子には自分が必要であり、この子のために自分は存在しているのだと強く自覚した方が良い・・・


※起承転結のない支離滅裂な文章になってしまった・・・