幸せな人にも不幸せな人にも、平等に与えられるのが「死」だ。

ここで私が平等という意味は、良い意味でだ。

不幸な人は死を待ち望んでいる(人も少なくない。実際、私がそうだし・・・)。

人はいつ死ぬか、それは、わからない。自殺した人は自分で死の時を決めてしまったのだろうが、それでも、自殺は何回も失敗に終わって、何回目かで自殺完遂するわけであり、自殺に成功した時、本人は今度こそ死ねたと、認識することはできない、つまり、やっぱり自分がいつ死ぬかはわからない・・・末期癌など身体疾患で寿命を迎えようとするときだけ「そろそろ死ぬ時が来たな」と自覚できる。


もし、不老長寿の技術が発明されたとしても、不死を望む人は皆無だと私は思う。いずれ、人は「もう充分生きた、死にたい」と思うだろう。

死がなかったら、無期懲役以上に残酷だ。


話を元に戻す。


死は、神からの恵みだろうか?

生も死も幸も不幸も痛みも苦しみも喜びも愛も悲しみも、神が人に与えた貴重な経験なのかもしれない・・・。

しかし、何のために?

神がいるという前提すら、おかしい・・・。

死は別に恵みではない。

生きていて何かを成し遂げて、だけど、結局、死んでしまって、後に残らない・・・
そんな生に何の意味があるというのだろう。

もちろん、死がなかったら、いつまでも、意識は存続し続け、いろいろ成し遂げ続けるのだろうが、そんなことにも意味はない・・・。

結局、意味のない人生に終止符を打てる「死」こそ、意味があるのかもしれない・・・。

毒を以て毒を制す、といったところか・・・。


また、意味のない、非論理的な文章を書いてしまった。
何か、逆転の発想をしたくて、いろいろ書いたけど、結局、空回りだ。。。

(本当は、人生に意味はあることを導き出したかった・・・。)