今日も、夜9時には床に就いても、ずっと眠れずにいる。お酒のせいだろう・・・
床に就いて眠れないときは離床して何か別のことをやった方が良いのはわかっているが、何もする気がなく、ただひたすら眠りに落ちるのを待っていたが、案の定眠れない・・・仕方ないのでブログを更新する・・・


何故、何もないのではなく何かがあるのか?

この究極の問いを考えるうえで、三つの要素+αを考える必要がある。

三つの要素とは、

①観測者
②観測される世界
③時間

そして、αとは「自分」のことである。

観測者が自分であればそれで充分であるけれど。


(1)観測者がいないで世界だけある場合、この問いは成り立つであろうか?

(2)観測者だけがいて世界がない場合、そんなことはあり得るのだろうか?

(3)観測者と観測される世界があっても、時の流れもない場合、あるいは、一瞬で終わる場合、そんなことはあり得るのだろうか?

(4)補足として、自分がいない場合、この問いはナンセンスなのだろうか?


(4)について、過去の自分と他者とは実は同じなのではないだろうか?
例えば、自分がまだ生まれていない時代の人々、彼らに意識があったのかどうかはわからない。あるいは、生物がまだ誕生していない太古の地球には人も当然いない。しかし、いずれにせよ、ビックバンから、地球の誕生、人類の誕生、そして自分の誕生と継続的な流れでつながっており、この時間の経過、過去等について、確信できる証拠がないから、存在していなかったと考えるなら、自分自身も否定することになる・・・


『何故、何もないのではなく何かがあるのか?』のよくある答えは、何かが突然誕生したりしても別にいいのではないか?という答えだ。道理も法則も何も初めからあったわけじゃなく、何が突然理由もなしに誕生し、やがて、規則性を持つようになって、だんだん今の世界になっていったとしてもおかしくはないのだから。

しかし、何かが誕生する瞬間、そこには時間も誕生していることだろう。無から有が生まれる瞬間、その時間が本当に一瞬の短い短い超短時間であっても、それは時間だ。時間は物が誕生するのと同時に一緒に誕生するのであろう。

ビッグバンでニュートリノが無数に誕生しそれで世界が始まったでもいいし、超弦理論のストリングのようなものが突然誕生しそれが自己増殖して世界が始まったでもいいし、とにかく、いろんな可能性が考えられる。
こうなってくると、可能性はいくらでもあってきりがない。

そこで、自分という意識が誕生したことについて、もっと考えなければいけないだろう。意識が脳の随伴現象であることは認めたとして、「この自分」という意識はなぜ存在するのか?

まぁ、脳が自分だけを認識するという機能があるから、そういうことがあり得るのであろうが・・・・