キリスト教では、洗礼を受けて信者になることを、自分のおかげではなく、神のおかげ、神が自分を選んでくれたと説明する。
(神はすべての人間を救うことを望んでおり、未信者もいずれキリスト教を信じれるようになるらしい)

とにかく、信者になることも、神の祈ることも、自分の力ではなく、神の御計画なのであろう。

つまり、自分という存在は、受け身であり、何かを自らの意志で行っていると感じていても、実際には、ただ感じるだけの存在なのかもしれない・・・


祈っている時の意識も、考え事をしている時の意識も、ただ覚醒しているだけの時の意識も、眠っている時の意識も、そして、そもそも、生きているということも、すべて受け身なのかもしれない・・・


論理が飛躍してしまった・・・

神に祈るとき、ひたすら助けを請い、ひざまづき、ただ受け入れる。
祈りは能動的なものなのか、あるいは、聖書がいうように神の恵みであり、祈るという自らの意志での行動ではなく、祈らずにはいられないような状況に神から与えられ自然と祈らされているのか?
とにかく、人は受け身でいることこそ、本来の姿なのかもしれない。まるで、おさなごのように。もちろん、おっぱいを求めて泣くだろうが、それは積極的な能動的な行為ではないのだろう・・・

眠って夢を見ている時、明晰夢は別として、人は能動的ではなく、ただ夢の光景を見させられている受け身の状態だ。

アダムとイブが自ら善悪を知る木の実を食べたときは能動的な行為だったのだろう。神から、取って食べてはいけないと言われた条件の中で、その条件に抗って、能動的に行動したことが原罪なのかもしれない。神は、エデンの園を管理せよと言った。その言われた条件の範囲内で日々過ごすことこそ、人の使命なのだろう。

自分の今置かれている状況・立場・環境・能力の範囲内で人は生きなければいけないのであろう・・・無理に自分の限界を超えて何かをしようとしてもそれは罪になるのかもしれない・・・

といっても、タラントの例え話のように、イエスは自分の持っている能力をしっかり使うようにとも言った。つまり、自分にできることはしっかりやらないといけないのだろう。怠慢も罪だとパウロは言っているし。

夢の中で人は、受動的にただただ光景を見、感情をせき立てられ、まるで映画を見るように、自分では何もできないけれど、見せられたものを感じて過ごす。この時、明晰夢ならば、自分で空を飛ぶ夢に変えていったり、自分の望む方へ夢を誘導していく。こんな明晰夢には、何の意味があるのかわからないし、もしかしたら、現実ももっと意識をもって積極的能動的に変えていくように努力した方が良いのかもしれないが・・・

意識の状態。。

祈っている時も何かにとらわれている時も何かに集中している時も、それでも、意識は周りの様子をかすかに把握している。例えば、自分の名前を呼ばれればすぐに気が付く・・・




どうどうめぐりの思考・・・
いつも結論は出ないし、考えていることは結局、非現実なものになる・・・