人は過去のいろんな辛い思い出や苦い思い出を持っている。しかし、それでいつまでも振り回されるのは良くない。
しかも、過去のことではなく、まさに今、苦しんでいる状況であろうと、それに縛られてはいけない。

どんな状況であろうと、今まさにやらなければいけないことを常に考える。
苦しんで辛くて焦燥している時でも、常に今神が自分に求めていることを考え、見つける。

たとえば、相手が自分のほほを叩いたら、まず神が自分に何を期待しているかを考える。それは相手の為に何をできるかと言うことだ。相手が自分を憎んで叩いてきているのなら、相手の為に自分のもう片方のほほも差し出して、気が済むまで、憎しみが消えるまで、叩かせてあげる。それが思いやりであり、愛なのだろう。
叩かれて、応戦するのは、自分の本能・感情に流された自己中心の行動だ。そうではなく、そういう時にこそ、『今』自分に求められている相手への愛を示すべきなのだ。

もう少し言うと、自分が相手に対して思いやりを持てないような苦しい状況にあるときこそ、他人に対して気づかいし、困っている人に手を差し伸べることが神の望むことなのかもしれない。だからこそ、神は苦しみをこの世に置いた・・・

自分が余裕があるときに他人に優しくするのは誰にでもできる。だけど、自分が助けてもらいたいような時に、逆に他人を助けることができたとき、それが本当の愛だろう。


マタイによる福音書第5章

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(38-39節)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(43-44節)