まばらに星が弱く輝く夜空を見ていると、この広大な暗い宇宙のこの一地点に自分という存在が、今というこの時刻に存在していることを、つくづく思わされる。

何故、自分が今ここに存在するのか?

それは脳という物質がここに存在し今活動しているから、というのが常識的な説明だろう。正確に言えば、脳の前頭葉が意識の発生源として重要なのだろう。脳卒中で右の頭頂葉や運動野がやられれば、半側空間無視といった変わった感覚や感覚のマヒ、そして運動の麻痺がおこるし、左側がやられれば、失語症にもなる。そういう医学的な臨床例から、脳が精神活動の源と科学は当然のようにとらえているわけだ。
しかし、言葉が話せなくても、理解できなくても、腕が動かせなくても、足がしびれても、記憶力が損なわれても、そういう高度な精神活動とは別の、いや、それら以上にもっと根本的な自我という意識があるはずだ。
といっても、植物状態や深いレベルの睡眠状態においては意識はないと科学者は言うだろう。
しかし、本当に意識はないと言えるのだろうか?

夢を見ている時以外の深睡眠の時、人は意識を感じていないと誰が証明できるのか?
同様に、植物状態の患者に意識はないと誰が客観的に証明したか?

意識があるのに、それを表出できないだけだったり、記憶機能は停止しているから後でそれを想起しようがないということで語ることができないだけだったりなのではないだろうか?

もちろん、夢を見ているような浅い睡眠状態の時に、すなわち、REM睡眠期に誰かが本人を揺り起こせば、本人が夢を見ていたと説明できるだろうが、記銘の能力も停止している深い睡眠状態のときに、むりやり起こしても、全く何も思い出せないだけかもしれない。そんな状態ですら、意識は何かを感じているかもしれない、夢を見ているかもしれない・・・即時記憶にもならないような一瞬前の出来事の陳述は記憶能力がなくてもすぐに陳述できるはずだと反論する脳生理学者はいるかもしれないが、その反論も不十分だ・・・あるいは、記憶能力のない自我はそもそも自我と言えるのかと反論する哲学者がいるかもしれない・・・

記憶もない感覚もないそんな状態の意識は意識として成り立つのか?

脳は確かにコンピューターのような素晴らしい精密機械だ。しかし、それで意識が、自我が、すべて説明可能だと証明はされていない。脳という物質がない状態でも、自我がきちんと存在し、普通の人間はぼーっとしているだけで、悟りを得た人間の自我は睡眠時も何か働いているのかもしれない・・・