神はすべてに時があると言う。
すべての事象に順序があり時間経過を必要とするのだろう。
何のために?
幸せのために。神の義のために。摂理のために。
しかしこれらをを成すのは何のために?
幸せのために。神の義のために。摂理のために。。
しかしこれらをを成すのは何のために?
幸せのために。神の義のために。摂理のために。。。
延々と続く・・・

この世で人が幸せを求めるのは幸せだと幸せだと感じるからであり、幸せであることは、もうそれ自体で完結しているような、「そうだからそうなのだ」というような、問答無用な印象がある。
しかし、何故幸せを求めなくてはいけないのだろうか?求めなければ不幸せとなり苦しく痛くつらく感じるわけで、それを避けたくなるのは当然の思いであるけれども、それでも、不幸を避けずに幸せを求めずに過ごすことは可能かもしれない。死んだ後、無に帰るのならばだが。
もし、人が死んでもあの世に行くなり輪廻転生するなり永遠に存在し続けるものだとしたら、不幸を避けることはしないというやせ我慢はもはや諦め、仕方なしに幸せを求めなくてはいけなくなるかもしれない・・・
人というのは幸不幸を感じる性質があり幸を求め不幸を避けたいという性質があり、それは、人が存在した時に宿命づけられたものなのだ・・・

その上で、すべてに時が必要であるというのは、一体どういう事なのか考える。
ここで唐突ではあるが、タイムマシンについて考える。タイムマシンは未来へも過去へも自由に行き来できる物として考える。結論として、そんなタイムマシンは存在しないと言える。未来においてそんなタイムマシンが発明されていたら今頃現代に来てそのタイムマシンの原理を教えてもらえるはずだから。
さて、すべてに時が必要というのも、このタイムマシン不可能論と同様に、あり得ないことだと証明できそうである。
まず、神は全知全能であり、どんな幸せも可能にすることができるとする。ただし、可能であっても、実際に何をするかは神の考え次第であり、神の価値観に基づく。その価値観は人間の価値観と同じというわけではない。神の価値観において、神は一体何を求めているか?それは幸せではないかもしれないし、そもそも何も求めていないかもしれない。
しかし、聖書ですべてに時があると言っている以上、何かを求めているのであろう。そしてそれは時間というものに関係する。時間が必要である。順序が必要である。