政治家でもボランティアでも一見ひとのために積極的に活動している人は、実は、自分自身のために活動していることに他ならない。自己実現か自己満足かはどうでもいいのだが、動物がなにかをするときそれは他者の犠牲の上に成り立っている。植物ですら、光を奪い合っているという事実がある。
政治家でもボランティアでも一見ひとのために積極的に活動している人は、実は、自分自身のために活動していることに他ならない。自己実現か自己満足かはどうでもいいのだが、動物がなにかをするときそれは他者の犠牲の上に成り立っている。植物ですら、光を奪い合っているという事実がある。
2024年7月7日の都知事選で落選した石丸伸二
落選後のTVのインタビューでも全然年下の女性アイドルに対しては威圧的な馬鹿にしたような返答をしておきながら橋本氏に対してはへらへらしている。
ひろゆきも以前、若い女性に対しては、まるでハイエナのように高圧的な口撃だったように。
弱気をくじき、強気になびく・・・
しかし、石丸伸二はかならず復活する。他の他府県の県知事もしくは国政の政治家もしくは政治評論家として。
都知事にはもうなれないが。
自分という存在は、自分が存在することを希望して生まれ出でたいと思ってこの世に存在し始めたわけだろうか?
無の中からいつのまにか勝手に存在し始めただけなのか?
人生は賑やかさや充実感や楽しさの為にあるのではない。
独りであろうと、栄誉がなかろうと、単調であろうと、そんなことは関係ない。
人生は幸せになることが人生の目的ではない。誰にも自分自身に対しても恥ずかしくない、後ろめたくない姿勢、神にも反論できるような生き方を貫くことが、ただただ大切だ(幸せや楽しさや賑やかさなどはかえってそういう姿勢を崩してしまう罠のような場合がある…)
人生の目的を考えるとき
自分中心の人は哀れだ
自分、自分、で生きていては、
その人生に意味は持てない
人生の意味とは
他人のために行動する人生がまずは前提だ
人々は現実的な幸せのためにあくせく日々の生活を送っている。そして、そのために大事なことを考える時間や労力を捨ててしまっている。それは、世の支配者にとっては好都合なことだ。大衆に対して、目の前にニンジンぶら下げ、追い求めさせ、いつの間にか大事なことを犠牲にさせる。
能力や状況や環境が揃っていれば、それに応じて最大限力を発揮して、才能を生かさないといけない、それが使命のはずだ!
人間より高次な存在が人間に意識を持たしてリアルな認識を知ろうとするだろうか?
まるで、人間が猫に対してリアルな認識を知ろうと意識を持たそうとするかと言われたら、そんな非人道的なことをしたいとは思わないであろう。
牛や豚や猫が、人間の本を読むさま、漫画を読むさま、TVを見るさまを観察しても、何をしているのか全く分からないであろう。(せいぜい、犬くらいは、人間がホラー映画を見ていて怖がっていたら、それに理解共感を示すかもしれない。)
それと同じように、人間より高次な存在が人間の苦悩し悪戦苦闘し努力する様子を見てそれに感動してEnjoiしているさまをもし観察できても、理解できないであろう。
人間より高次な存在は、よりリアルにハラハラドキドキ感じるために、人間に意識を植え付けたのか?
イスラム圏や東南アジアなど日本の古き良きドラマ「おしん」が非常に人気がある
あれは、苦労しても、くじけず、頑張る姿がみんなの心を打つからだ
意識が楽しみ喜ぶのは細胞にとって共感できない しかし、意識が精神的に苦しみ悩みそれに打ち勝つように努力する様は細胞にとって非常に心強いエネルギーになる(まるで漫画を読んで主人公に共感して現実を頑張ろうと思う読者のように)。