電話を切ったすぐ後、俺は店を出て教室に向かった。
彼女には1時間後にと伝えたが、正体不明の焦りのようなものを感じていた俺は早めについてお茶を一服立て、平常心に戻ってから逢おうと思ったからだ。
「あら、藍屋先生・・・どうしたんですか?」
到着するなりすぐ、出かける準備をしている紫苑先生に出くわした。
「あ、せんせ・・・」
「今日はお休み、ですわよね?」
「へえ・・・」
何も考えていなかったが、ここで彼女と待ち合わせたのは間違いだったと今更ながら後悔する。
「私、急に出かけなくてはならなくて・・・幸い、今から17時まで生徒さん来ないから」
「そうどしたか、ほんならわては」
帰ります、と俺が言いかけると
「1時間ぐらいで戻れると思うから、それまで藍屋先生いらっしゃるならお願いしてもいいかしら?」
「・・・お願い、どすか?」
「ええ、ちょうど15時までにね、業者さんが来るはずなの。教材の配達でね」
紫苑先生はにこにこと朗らかな笑みで続けた。
「明日に配達変更してほしいってお電話しなきゃと思ってたんだけど、受け取りお願いできるかしら?」
(そういうことか)
「へえ、かましません。業者さんに事務所へ運んでもろたらええですか?」
「ええ、いいかしら?」
きっと断らない事を分かっていて、それでも申し訳なさそうに眉を下げる。
ずいぶんと年上の女性だが、こういうところが先生の可愛らしいところだなんて考えて、どことなく面影が似ている彼女の顔が頭に浮かんだ。
「もちろんどす、お気をつけて」
ゆったりとほほ笑み返すと
「じゃ、お願いしますね」
ぺこりと頭を下げて、紫苑先生は出かけて行った。
「・・・ふぅ」
ひとつ溜息をついて腕時計を見る。
約束の時間は14時10分だ。
あと20分ぐらいか、と思いながらロビーにあるソファに腰をおろす。
お茶を立てるのをあきらめて、このまま彼女を待つ事にした。
(たかが数回、しかもそのほとんどは一方的に面識のある彼女に対して何故こんな感情を覚えるのか・・・)
自分でも訳が分からなかった。
お世話になっている先生の娘さんだからか?
いや、きっと違う。
まだ言葉も交わした事もなく、「よく見かける女の子」という存在だった頃から惹かれていたのかもしれない。
(まさか、この俺がね・・・)
自分でも可笑しくなって、思わず自嘲気味に笑う。
そんな時入り口の方からカタン、と音がして、振り向くとそこに彼女が立っていた。
「あ・・・」
ちょっとだけ驚いた表情をして、そして俯きながら一歩一歩、こちらに近づいてくる。
「早かったどすな」
俺はソファから立ち上がって、近づいてくる彼女に歩み寄った。
彼女は、足元に落としていた視線を徐々に上げて俺と目が合うと、また驚いたような顔をしてから、ふっと視線を逸らした。
「何をそないびっくりした顔してますんや」
「きょ、今日は・・・着物、じゃないんですね・・・初めて見ました」
そうか、洋服の時に逢うのはこれが初めてだったんだな、と思い出す。
「年がら年中、着物って訳でもあらしません」
「そ、う・・・ですよね。あの、あきな・・・藍屋先生・・・」
名前を口に出しかけて、名字で呼び直された事に、心が焦れた。
そんな事を自覚して、思わず返答が遅れる。
「・・・へえ」
短く返事をすると、バッグの中から派手な携帯を取り出してそっと差し出す。
「これ、慶喜さんの携帯、です・・・」
一瞬だけ目があったが、またすぐに下を向いてしまう。
何をそんなに警戒されているんだろうか。
彼女の態度はまるで親に怒られている子供の様だった。
「・・・お手数かけてすんまへんどしたな」
さらっと言ってしまってから、違う、こんな風に怯えさせたい訳じゃないんだと続ける言葉を探しつつ携帯を受け取る。
軽く指先が触れて、彼女がさっと手を引いたので危うく携帯を落としそうになる。
「ご、ごめんなさいっ・・・」
「・・・どもないどす」
俺は受け取った慶喜の携帯をポケットにしまった。
「あのっ・・・」
「なぁ・・・」
数秒の沈黙の後に発した言葉は、ほぼ同時だった。
彼女は反射的に顔を上げて、丸く大きな目を一層見開いて俺を見つめた。
「い、いや・・・その・・・」
何を言えばいいのか。
口を開きかけたまま、俺はその目を見返して固まってしまった。
すると、彼女がゆっくりと瞬きと深呼吸をして。
「わ、私・・・何か失礼な事を言ったり、してたのならすみませんでした」
突然何を言い出すかと思ったら、俺に深々と頭を下げてそう言ったのだ。
「へっ?な、何を・・・」
「だって、お店に来るなって・・・急にそんな風におっしゃったから・・・本当は心当たり、ないんですけど・・・でも」
「ちょっと待って、それは違うから」
あまりにも不意を突かれた言動に、俺は標準語で話してしまっていた。
「誤解、誤解だから・・・」
今にも零れ落ちそうな大粒の涙を眼の端いっぱいに溜めて、彼女は俺を見上げていた。
細い両肩にそっと手を乗せると、ビクっと身体を強張らせてその手に視線を向けた。
「昨日言った事は、そういう理由じゃなくてだな」
ゴホン、と咳払いをして今度は俺が深呼吸をした。
慶喜に言われた『「ねえ、そうやって自分を偽る事に意味はあるのかい?」』という台詞を頭の中で反芻しながら。
「そうじゃなくて・・・ただ、いつからか・・・違うな、いつからかじゃない」
独りごとの様に言う俺を、彼女は不安そうな顔で見つめている。
落ち着け、と自分に言い聞かせてもう一度深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
「せ、せやから、その・・・出逢う前に何度かあんさんを見ていた時から・・・・きっと、気になって仕方なかったんや・・・と思う」
言葉が通じていないのか、眉根を寄せた不安そうな表情が、どんどん不思議なものを見ているみたいに変わってゆく。
今度は、いつぞや慶喜に言われた『秋斉はさ、言う事もやる事も、まわりくどいんだよ』という声がすぐ耳の横から聞こえて来るような気がする。
『ここぞ、時と言うはもっと思った事をストレートに表現した方が良いんじゃないのかい?』
いままでに、他にも似た様な進言を何度もされてきた。
(あぁ、そうだな・・・今こそがここぞと言う時、なのかもな)
俺は一歩踏み出して、彼女との距離を縮めた。
息がかかりそうな近さまで顔を寄せて。
「わては・・・」
≪秋斉編8へ続く・・・≫