次の日、秋斉さんにしては珍しく、朝食の時間を過ぎて昼になろうとしてもまだ自室から出て来なかった。
昨日、随分と飲んでたみたいだし・・・じゃなきゃ、あんな事・・・。
ちょっと心配しながら、昨夜のキッチンでの出来事を思い返して独り赤面してしまう。
ベッドの上から壁の向こう側に視線を飛ばすと、タイミング良くドアがノックされてびくっと飛び上がりそうになった。
「は、はい・・・」
返事をすると廊下側ではなく、秋斉さんの部屋と繋がっている方のドアがゆっくりと開いた。
「おはようさん・・・」
辛そうにこめかみを押さえた、寝起き姿の秋斉さんが軽く頭を下げる。
「・・・おはよう、ございます・・・」
あんな事があったばかりだから意識せずにはいられなかった私は、つい口ごもりながら挨拶を返した。
「なんや頭がガンガンして・・・悪いんやけど、頭痛薬と水を持って来てくれへんかな」
リビングのAVボード横に薬入れがあるはずだと言って、秋斉さんは部屋へ戻って行った。
そっけない態度に違和感を覚えたけれど、急いで頭痛薬と水を持って秋斉さんの部屋へ届ける事にした。
「お待たせしました」
部屋に入ると、秋斉さんはベッドで横たえていた身体を起こした。
「おおきに」
錠剤を2つ掌に出して、グラスの水で飲み込むと、はぁっと息を吐き出して、困ったように眉を下げてほほ笑んだ。
「昨夜飲みすぎたみたいなんや・・・」
「・・・そう、ですね・・・」
また思い出してしまって、少し頬が熱くなって来たのを感じながら相槌を打つ。
すると、秋斉さんは驚いた様な顔をして
「へ?なんであんさん、わてが飲んで帰って来たの、知ってはるん?」
「・・・・・・えっ?」
言葉の意味が良く分からなかった。
「あの・・・」
「実は、どうやって帰って来たかもよう覚えてまへんのや」
気まずそうに寝ぐせのついた髪をくしゃっと掻いて、
「なんや迷惑かけましたやろか・・・?そやったら、許しとくれやす」
にっこりと笑顔を作る。
あ・・・覚えて・・・ないんだ・・・。
安心した様な、がっかりした様な、複雑な感情が込み上げてきた。
「・・・ど、どないしはったん?わて、なんか変な事いいましたやろか?」
急に秋斉さんがあたふたとする。
理由は、私の頬を伝う涙だった。
視界がぼやけてきて、ようやくそれに気がついた私は、
「・・・あれっ?あ、ごめんなさい・・・なんでもないんです」
自分でもびっくりしてしまって慌てて部屋を出ようとした。
その時、秋斉さんに手首を掴まれて引き寄せられて、そのままストンとベッドに腰掛ける格好になった。
「なんでもない事ない、どないしはったん?」
原因は自分にあるのだと思っているのか、必死に私の顔を覗き込む。
「本当に、本当になんでもないんです・・・目に、埃がはいった・・・だけです」
「でも・・・」
「大丈夫、です・・・目、洗って来ます」
秋斉さんの視線から逃れるように顔を背けて、掴まれていない方の手で涙を拭った。
「・・・ほんま?」
頼りない声で聞かれて、私は無言で何度も首を縦に振った。
これ以上心配されたり、優しい素振りをされたら、堪えきれそうにない気がした。
すいません、とできるだけ声が震えてしまわないように言って部屋を飛び出し、そのまま2階のバスルームへ駆け込んだ。
酔っていたんだもん、覚えてなくても仕方がない・・・。
でも、なんで、こんなに悲しい気持ちになるんだろう。
胸がドキドキとして、それが甘いものではなく、締めつけられるような苦しい感覚。
少しずつ呼吸が早く、荒くなって、私はその場にうずくまって声を殺して泣いた。
泣きながら、慶喜さんが似合うと言ってくれた着物の事や、美香さんの事。
何日間も2人で過ごした深夜の休憩時間に話してくれた彼の生い立ちや、色んな話。
昨日のキッチンでの甘く切ない秋斉さんの声。
色んな事を思い出して、頭の中がどんどんこんがらがっていく。
ほんの少しでも自分の事を秋斉さんに気に入ってもらえてるのかも、だなんて思いあがっていたのが全部勘違いだったんだと、情けなくて涙は溢れる一方だった。
突然背後に気配を感じて泣き顔のまま振り返ると、驚きに目を見開いた慶喜さんが立っていた。
「どうしたの?何があったの?どこか痛いの?」
矢継ぎ早に質問を言って、私の傍にしゃがみ込む。
あれ?なんでこんな時間に慶喜さん、家にいるんだろう?
何故かそんな事を思いながら、弱く首を横に振る。
「なんでも、ないです・・・ごめんなさい・・・」
慶喜さんの大きな瞳から逃れるように立ち上がって、洗面台で顔を洗う。
「目に、埃が入ってしまって」
蛇口から排水溝へ流れてゆく水を見つめたまま、そう言うと
「でも今、泣いてたでしょ?」
慶喜さんはそっと後ろから私を包み込んで、髪を撫でる。
「なんでも言って・・・僕が全部、解決してあげる」
その声は甘く優しく、私の心にじわりと広がった。
「・・・っ」
私は、水と涙で濡れたままの顔を慶喜さんの胸に埋めて、しばらく泣いた。
その間、慶喜さんはただ黙って頭や背中を撫で続けてくれた・・・。
このままではいけない、何か言い訳しなきゃ・・・と慶喜さんの胸の中から顔を上げると、廊下の方ですっと動いた影が視界に入った。
目で追った時にはもう何も見えなかったが、微かに上品な香りがバスルームに流れ込んできた。
秋斉さん・・・?
「すっきりしたかい?」
私の顔を見降ろして、柔らかく尋ねる慶喜さんの声にはっとする。
「あっ・・・す、すみませんでした・・・私・・・」
「うん」
「私・・・」
ゆっくりと深呼吸をしてから、ただこの家から出てゆくのが寂しいのだと。
ちょっと感傷的になってしまっただけなのだと。
自分の中でもまとまりのつかない秋斉さんへの気持ちに関しては話す勇気がなかった・・・。
慶喜さんはうん、うん、と頷いて、私の話を最後まで聞いてくれていた。
「そう、わかったよ・・・」
シャツの袖でまだ少し濡れている私の頬を拭って、目許を和らげて笑うと
「ふふふっ、まったく世話の焼ける兄だね・・・君にこんな思いさせて」
微かに聞き取れるぐらいの声で呟いた。
「えっ?あの・・・」
「ところでさ」
急に用を思い出したように、慶喜さんが話題を変える。
「ちょっと急な出張が入ってね、それで一旦家に戻ってきたんだ」
平日の昼間にここに居たのはそう言う理由だったらしい。
「でね、君にも一緒に来てもらうから、準備して」
「えっ?準備、ですか・・・?」
「そう、ほら、早く」
有無をも言わさず手を引いて、私の部屋の中へと入って行く。
「30分後に出るからね、準備出来たら下に降りて来てね」
部屋を出る時に、3泊ぐらいするからね、と言い残して廊下に置いてあった自分のスーツケースを持って階段を下りて行った。
出張にお供、って事・・・?
それに、さっき慶喜さんが呟いた言葉・・・一体どういう意味?
展開が急すぎて頭の中の整理がつかぬまま、私はバッグに2~3泊分の着替えを詰め込んで部屋を出た。
秋斉さんにこのまま何も言わずにというのも気がかりだったので、挨拶しておこうと彼の部屋をノックする。
「へえ」
中から短く返事が聞こえて、私はドアを少しだけ開けて顔をのぞかせる。
「もう埃は取れましたかいな」
ベッドの上でクッションに背を預けて、手に持った本に視線を落したまま、いつもの凛とした口調で尋ねる。
「はい・・・あの」
「ん?」
視線は以前、手元の本に注がれたままだ。
「慶喜さんの出張にお供する事になりましたので・・・もう秋斉さんが京都から戻られた時にお会いできるか分からなかったので・・・ご挨拶をと思って」
また何かが込み上げそうになったのを必死で押さえながら言った。
「慶喜はんの・・・?」
秋斉さんは急に顔を上げて、びっくりしたように目を開き、すぐにいぶかしむように目を細める。
「あ、はい・・・あの、お世話になりました、足お大事にして下さい」
私は頭を下げて、彼の言葉を待たずに部屋のドアを閉めた。
逃げ出すように階段を駆け下りて、リビングにいた慶喜さんに声をかける。
「早かったね、行こうか」
慶喜さんが目配せをした運転手の男性が、私の手元から荷物を取り、車まで運んでくれる。
さぁ、と先に玄関の方へ向かって歩き出す慶喜さんの背中を見て、私はふいに立ち止まり、階段の方を振り返った。
何を期待していたのだろうか。
秋斉さんが見送りに部屋から出て来てくれるとでも?
淡い期待は大きく外れ、誰も居ない階段の上をぼんやりと眺めていた私に
「行くよー」
と玄関から促す声がかかった。
「あ、はい・・・すみません」
私は小走りで玄関に向かった―――
≪黙想7へ続く・・・≫