そのあと私は部屋に戻って、専用で使わせてもらえると言われた2階の浴室へ行く用意をしていた。
2階にはこの部屋と繋がっている秋斉さんの部屋、慶喜さんの書斎と寝室、物置き代わりになっている大きなウォークインクローゼットに広い客間、来客用のお風呂とトイレがある。
慶喜さんと秋斉さんは1階の浴室やトイレを使っていると言う事だったので、今日から1カ月の間、その来客用のお風呂やトイレが自分専用になるのだと思うとなんだかとても贅沢な感じだ。
バスタオルなどの準備は常にハウスキーパーの方がやってくれるらしく、私は着替えとパジャマ、洗顔用具を持って部屋を出た。
想像通り、この立派な屋敷に相応しく浴室も浴槽も広くて、まるで温泉宿にでも泊まっているような感覚になった。
ゆっくりと温まって、お風呂からあがり、洗面所で髪を乾かして部屋に戻った。
鏡の前で化粧水やクリームを塗って簡単に肌の手入れを終えると、明日は大学も休みだし、夜更かししようかと思って私はノートPCを立ち上げた。
ベッドに横になりながら、起動し終わるのを待つ。
・・・このすぐ向こうに秋斉さんがいるんだよね・・・。
壁が分厚いのか、それとも彼が仕事に熱中しているのか、さっきから物音ひとつ聞こえる事はなかった。
・・・まだお仕事、してるのかな?
なんとなく気になってベッドから起き上がり、秋斉さんの部屋と繋がっているドアの方へと向かい、耳を澄ませて隣の様子を伺う。
なんか、ストーカーっぽいな・・・。
自己嫌悪に陥った私は、またベッドの方へ戻ろうと向き直った。
すると、
「・・・まだ、起きてはりますか?」
隣の部屋から秋斉さんに声を掛けられて、口から心臓が飛び出しそうになった。
「あ、は・・・はい」
慌ててドアの向こうへ返事をする。
「すんまへんが、1つお願いできますやろか?」
思ったより近くで声が聞こえるので、ひょっとしたら秋斉さんがドアを開けたらすぐそこに立っているのかもしれない。
「はい・・・なんでしょうか?」
ドキドキする胸を押さえながら、なんとか声を出す。
「コーヒーを淹れて来て欲しいんやけど」
きっとまだ仕事の最中なんだろう。
あの足で1階のキッチンへ行き、コーヒーを持っての階段を上るのは怪我をしている彼には難儀だし、危険だ。
「わ、わかりました。すぐにお持ちしますね」
ドアに近寄ってそう言うと、おおきに、と優しい声が聞こえて、私は秋斉さんのほほ笑んだ顔を思い浮かべ一人で赤面してしまった。
1階のキッチンへ行き、綺麗に整頓された棚の中からコーヒーの粉とカップを取り出す。
コーヒーを淹れ終えると、ミルクと砂糖とスプーンも一緒に小さなトレイに乗せる。
秋斉さんの部屋の前まで辿り着いてから、自分がパジャマ姿ですっぴんだった事に気づく。
どうしよう・・・恥ずかしいけど・・・。
ドアのところですぐトレイごと渡してしまえばいいか、と考え直してドアをノックした。
「どうぞ、開いてますえ」
中から秋斉さんの声がして、ゆっくりと開ける。
「おおきに」
秋斉さんはデスクの上に広がった書類やら生地スワッチやらを一瞥して、ああ、そこに置いてくれますかと目線でソファ前のテーブルを指す。
トレイをすぐ渡して部屋に逃げかえろうと思っていた私のもくろみはそこで断念せざるをえなかった。
「・・・失礼します」
知り合って間もない男性に、こんな姿を見られてしまうとは。
私は顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってしまった。
もしこれが、温泉旅館の番頭さんだったら?
もしこれが、コンビニのバイトの男の子だったら?
多分、それなら恥ずかしくともなんともない。
こんなに恥ずかしいのは、私が秋斉さんを意識してしまっているから・・・?
秋斉さんは松葉杖で身体を支えながらソファの方へ移動すると、私がテーブルに置いたカップを見て
「あれ、わての分だけ?あんさんの分は?」
と不思議そうな声を出す。
「へっ?」
私は間抜けな声で振り返る。
「なんや、休憩に付き合うてもらおかと思てたのに」
杖を床に置いてソファに腰を下ろす。
「いえ、そんな・・・」
私が仕事の邪魔をしては・・・と、トレイで顔を半分隠しながら首を左右に振る。
「毎日毎日、こうして静かな広い部屋で独りきりや。たまには慶喜はん以外の誰かと一緒に・・・」
そこまで言って、ふっと寂しげに笑みを浮かべて目を伏せた。
「いえ、なんでもあらしまへん」
そして秋斉さんはカップを手に取り、おおきに、おやすみなさいと呟いた。
「・・・あ、あの」
「ん?」
まだトレイで顔を隠したままそこに突っ立っていた私を見上げた。
その目にはもう寂しげな色はなかったけれど、何故か部屋に戻る気がなくなった私は積極的な事を口走っていた。
「お夜食とか・・・何か作ってきましょうか?」
秋斉さんは一瞬驚いた表情をしたけれど、また穏やかな顔に戻って
「有難う、でも」
「いえ、私は秋斉さんのお世話の為に来たので・・・なんでも言って下さい」
そうだ、私はその為にここに居るんだから。
「・・・じゃあ」
秋斉さんは少し首を傾げてにっこりとほほ笑み
「少しだけわての休憩に付き合うてくれはる?」
自分が座っているソファの横に、とん、と手を置いた。
隣に・・・って事、だよね。
「失礼します」
ちょっとだけ距離を取って、私はゆっくり腰を下ろした。
良く見ると、きっと秋斉さんもお風呂に入った後だったのか、さっきまでの和装とは違う、浴衣のようなものを着ていた。
白い肌や華奢な手元とは対照的に適度に引き締まった胸元が、前の合わせのたわみから覘いていて、いけないものを見てしまった気がした私は焦って目を逸らした。
「・・・ところで、あんさんなんでずっとそうして顔を隠してはるの?」
やっぱり気になりますよね・・・。
目元だけしか見えていないはずだけど、でもきっと見えている部分はさっき見た秋斉さんの胸元のせいで真っ赤になっているに違いなかった。
「あ、の・・・これは、その・・・私お風呂を済ませてしまって、その・・・すっぴんでして・・・」
「ふふっ、おかしな事言うて」
秋斉さんは小さなトレイをひょい、と取り上げた。
「化粧なんて、そんなもん表面的な事やおまへんか」
取り上げたものをぽいっと私が座っている方とは反対の方へ投げてしまった。
「それに、あんさんは可愛らしいから、素顔でも気にせんでええよ」
まるで魔法の言葉をかけられたように、秋斉さんの声が耳元から溶け込んで、私の中でふわっと広がる。
俯いていた顔を少しだけ上げると、細長い指先で顎をついっと持ち上げられた。
「ほうら、やっぱり可愛いな」
「・・・」
私が何も言い返せずに固まっていると、うんうんと満足げに頷いてまたコーヒーに口をつける。
今度はすっぴんが恥ずかしいという理由とは違った理由で、私は耳まで真っ赤になってしまった。
そして少しすると、慶喜はんから聞いたかもしらんけど、と前置きをして秋斉さんがぽつぽつと語り始めた。
「わてはな、この一橋の先代の妾の子やったんどす」
「芸奴で忙ししてたお母はんとも、あまり一緒におった記憶がないんや。せやから小さい頃からずぅっと独りやった」
「せやけどここに引き取ってもろてから、慶喜はん言う弟がおると分かってな」
慶喜さんの話になり、秋斉さんは嬉しそうにふふっと笑う。
「あんなんやけど、あん人はえらい頭の回転も速いし、あの年で会社を継いでも全然先代に引けを取らへんぐらい頑張ってはる」
慶喜さんの事を自慢げに、楽しげに話す秋斉さんを見て、私も自然と頬を緩ませて話を聞いていた―――
「あ、なんやわての話ばっかりしてもうて堪忍え」
いくつか慶喜さんの話や秋斉さんの仕事の話なんかを聞いた後、急にそう言って照れくさそうに目許を赤らめた。
「いえ・・・もっともっと秋斉さんの話、聞きたいです・・・」
「ふふっ、せやけどこんな時間やし、まだ仕事の途中ですさかいに」
秋斉さんが視線を飛ばしたデスクの上にある時計をちらっと見ると、表示はすでに0時を超えていた。
そっか、仕事の合間に休憩してただけだもんね・・・。
私はちょっとだけ残念に思いながら、すみません長居して、と立ち上がる。
「あ、でもまた明日。コーヒー淹れて来てな」
肩を落とした私の表情が寂しそうだったからか、フォローしてくれるように秋斉さんが声をかけてくれた。
「今度はちゃあんと、あんさんの分も」
後ろ足でドアの方へ踏み出した私に微笑みかけて、ほな、おやすみなさいと頭を下げる。
「はい、おやすみなさい・・・」
繋がっているドアを閉めて、私は嬉しさのあまりベッドへ駆け出し、ダイブした。
スプリングが良く効いているベッドの上で置きっぱなしだったPCが大きく跳ねて、危うく落ちそうになったけど、そんな事はお構いなしに私はクッションを抱きしめて零れる笑みをかみ殺す。
色っぽい影を作る憂いのある瞳、くすぐるような透き通った声。
その秋斉さんがすぐ隣にいると思うだけでまた鼓動が速くなり、私はその後すぐには寝付けなかった。
淡い恋心が少し大きくなった瞬間だった。
≪黙想4へ続く・・・≫