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幡豆町のNPO法人が解散すると書いてあった。

 

2006年9月から2008年7月まで約2年間、新聞社の通信局在住で担当エリアだった。

幡豆町には近隣の町からの出向職員がいて、いろんな企画を持ち込んできた。

西三河地方はトヨタ自動車の産業集積地で豊かな自治体が多いが、その中で幡豆町は厳しい財政状況だった。

 

それでも役場の人間は地元の「幡豆」を愛し、名鉄蒲郡線の存続を訴えたり、日本一のアサリと言っていい

海産物にも恵まれた地で、知恵を出して行政運営をしていた。

 

担当エリアは、西尾市、幡豆町、一色町、吉良町の一市三町で、隣り合う市町なのに

みな特徴が違って、外から来た私にとっては面白い土地だった。

 

その中でも、より弱い者の味方でありたい私は、幡豆町に肩入れした。

これも初任地の上司の教えだった「地方記者が記事を書かなかったら、誰もその土地で起きたことを取り上げないんだ。必死で書け」という

気持ちが強かった。

 

そして、社会的弱者に寄り添った記事を書きたいと思っていた私を本社から飛ばした上司へ、見返してやりたい、恥をかかせてやる、という思いも当然あった。通信局勤務のおかげで、比較的好きな記事を書けたし、自分の取り上げたいテーマを取材対象に代弁させられたという思いもある。

 

捨て子の女性が引き取られた尼寺で副住職になり、地域の若者の相談相手になっている記事。発達障害のある少年とその両親が「この子は周りの理解が無いと生きていけない」と、その少年の絵画の才能を伸ばし、C.W.ニコルさんとも親交があるという記事。交通事故で下半身不随になった女性が水泳でパラリンピックを目指しているという記事。末期がんの男性が、戦争反対を訴えて本を読み聞かせしたり、演劇にも取り組んでいるという記事。引きこもりだった男性が、一念発起して世界的なバイクライダーになった話。国宝級の本が保管、展示されている「岩瀬文庫」を支える学芸員や大学研究者の想いの記事。

 

県庁所在地でもない、地方都市でストレートニュースでは大きなものなど無い。泥臭いヒューマンストーリーばかりを追いかけた。

学校の行事や、古樹の木の花が満開になった、珍しい形の野菜が採れた、みたいな地域の話題も重要なのかもしれないが

そんな「誰でもできる」仕事はしたくなかった。それでは、自分がここに居る意味がない。自分しかできない仕事をすることに意味がある、と単身赴任だった通信局の二階で夜、布団に入るとき、常に思っていた。

 

幡豆町に話を戻す。幡豆町では、「ぼくらの七日間戦争」などで有名な児童文学作家、宗田理さんのインターネット小説を本社後援にして

後にそれが自分の社で出版することになったり、地方版でしか取り上げられていなかった鳥羽の火祭りを一面でカラーで発信したり。名鉄蒲郡線の存続運動を何度も取り上げたり。地元の酒造会社が、これまた地元の陶芸家と組んで地産地消を促したり。「幡豆めし」という地域ブランドを立ち上げ、PRしたり。臨時職員で来ていたドイツ人とのハーフの女性が、地元の祭りを四か国語で町のHPで紹介しているという話を取り上げたり。その女性が私の高校の同級生の13歳下の妹だったという裏話もあったり。

 

この話の大半は、これもまたひょんなことから幡豆町に来た出向職員が仕掛けたアイデアだった。猛烈な馬力で幡豆町内を回って、ネタを仕入れては通信局に持ち込んでくる。通信局や町役場で、そのアイデアを聴いて30代半ばの若い偉そうだった通信局長だった私が「こういう風にストーリーを組み立てれば記事になる」なんて話をして、出向職員と記事にしていった。

 

幡豆町の友引市も今回解散となったNPO法人もそうだった。その出向職員が、国や県から企画を上げては予算を取ってきて、具現化していた。共同作業と言えば聞こえがいいが、共犯関係と言ってもいいかもしれない。出向職員も私も幡豆町を舞台にして、自己表現をしたかったのだろう。生きているという証を立てたかったのかもしれない。

 

二カ月ほど前に、その職員と飲む機会があった。「自治体の職員は、国や県を巻き込んで天下国家を語れるから面白い」と話していた。この3月に自治体を退職し「あと10年。今度は日本文化をテーマに仕掛けを作っていく。10年は頑張る」と言っていた。

 

出向職員が仕掛けていった友引市や酒造会社とのコラボ、NPO法人も一定の役割を終え、西尾市との市町村合併の影響もあって幕を引いた。

 

私はと言えば、幡豆町でやりたいことも出来たが、当時の西尾市長の脱税事案やその後に発覚した建設業界との談合事件の虎の尾を踏んで、志半ばで幡豆町を去った。新聞社という箱に限界も感じ、また組織に馴染めない自分もいた。

 

幡豆町で出会った宗田理さんに会う度に「組織に居たんじゃ書きたいことは書けない。辞めてしまえ」と言われた。ドイツ人のハーフだった臨時職員は、その後、ラジオのDJになったが「石原さんは本島に書きたいことを書いているんですか」と面と向かって言われたことがある。

 

そんな言葉も、新聞社を辞める後押しをした。

 

実は大相撲に肩入れするのも、弱い者の味方になりたいという心情に関係するのだが、家庭環境に恵まれずに角界入りする弟子も多くいる。外国出身の力士だって、モンゴルや旧東ヨーロッパなど経済格差が日本とあり、身体一つで身を立てようという人間が多いからだ。

 

この想いは一生ぶれないだろう。

 

幡豆町という名前は無くなった。それは、その地に住んでいる人間にとって、存在理由、存在証明を失いことに等しく、受け止め方は個々あっても、マイナスの感情であると思う。友引市やNPO法人、名鉄蒲郡線の存続などは地域を守る掉尾だったのに、その灯が消えることは余りに寂しい。

 

新聞記者なんて、我が物顔をして、地域をかき回し、去っていく、どうでもいい人種だ。今そこに生きている地元の土地守(とちもり)こそが重要なんであって、それは映画「七人の侍」と同じ構図でしかない。

 

感慨以外の何物でもないが、いま、あの幡豆町で何が出来たのか。もっと出来たのではないか、と反芻しつつ、筆を置くことにする。

 

2018年6月25日       石原泰智