法住寺 (忠臣蔵シリーズ)[京都府] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

風さそふ 花よりもなほ 我はまた

春の名残を いかにとやせん

 

 

「最後に一つだけお教え願いたい。上野介の容態はいかに」

 内匠頭長矩の問いに、上使の一人多門伝八郎はこう答えたという。

「城中取り込んでいたゆえ確とは存ぜぬが、深手を負うた由、おそらく養生はかなうまい」

 長矩に対する、せめてもの武士の情けであった。

 

"忠臣蔵というのは、元禄十五年 (1702十二月十四日夜、赤穂浪士四十七人が亡君の仇討ちを遂げた事件をテーマとして作られた浄瑠璃、歌舞伎脚本、講談などの総称である。

 

忠臣蔵銘々伝 物語と史跡をたずねて / 監修 尾崎秀樹

 

 

浅野内匠頭の月命日になる十四日に限って所縁の地を巡る 忠臣蔵シリーズ 、この日は、、

 

 

法住寺 

 

 

 

 

 

 

 

大石内蔵助が赤穂城引き渡し後に隠棲した先は京都の山科

 

しかし、何故に隠棲の地として選んだのか

 

三月十四日に吉良上野が江戸城松の廊下で斬られたという知らせは、五日後の十九日に京都御所に届いたようだ

ときの関白近衛基熈このえもとひろ(近衛家21代当主は、その日のことを日記に「珍事々々」書き残しているという

翌日には事件を伝える手紙が関白に届き、その手紙を東山天皇に見せると天皇は「御喜悦の旨 仰せ下し了(をは)んぬ」、お喜びの言葉をおおせになった とあるようだ

 

どうやら朝廷側は、幕府に忠実な高官として朝廷に出入りしていた吉良家を快く思ってはいなかったらしいんだなぁ、だからこそ内蔵助は、そういった朝廷側を味方につけたかったのかもしれないという説もあるようで

 

山科は朝廷の御料でもある

 

 

御朱印

そのものずばり

 

山科にいた折り、法住寺さんの身代り不動尊に詣で、大願成就を祈誓した とある

 

 

 

法住寺

天台宗

御本尊:身代り不動明王像

後白河法皇御所聖蹟

四十七士木像安置

 

 

 

 

 

天台宗の門跡寺院である妙法院の院家 (塔頭で、幕末まで代々法親王が住持をつとめた、宮家とは深いつながりのある寺院なんだね