「あんたは苦しんでいる世界と、
悟りの世界は別やと思うとるのだろう。
いいか、救いの世界は他にありはせん。
いま苦しんでいることから逃げんで徹底的に苦しんだらええ。
自分の至らなさを痛感し深く悲しんでいる中に
悲しみのまんま救われていると感じる時がきっと来る」
今悲しみの底にある人も、
きっと柴山老師が仰るように思える日が来ることを願ってやみません。
管長さんのブログより「悲しみのままに」20210423
Q. 幸せを感じるのはどんな時?
月刊誌PHPの五月号は創刊75周年記念号と銘が打たれ、巻頭の特集では、金澤泰子さん、金澤翔子さん、管長さんのお三方での県談も
その中で次のような会話があった、ふと 柴山全慶老師の冒頭のこの話を思い出し、また、鈴木大拙博士の言葉があたまに浮かんだ、、少々長いが引用させていただく
(ー人ー)
横田 私も今苦労をさせられているのは、幸せの種をまいているのだと思いながら、やってきたんです。でも何年くらい前からか、思いが変わってきました。「苦しい時は今幸せの種をまいていると思うがよい。そう教わってきたが、実はそうして堪えている時こそが幸せのただ中なのだ」。最近は、そう思うようになりました。
泰子 苦しみのただ中にいるときこそが幸せだと?
横田 でも、それは苦しみが終わってみて初めてわかることなんですね。そのときはわからないんですが、涙を流して泣いていたときが一番輝いていた。あれは闇の中にいたんじゃなくて、実はあれこそが光の中だったということが、ふり返ってみるとわかるんじゃないでしょうか。
エデンは決して失われない。
無垢の世界も遠くに去っていない。
この穢土がすなわちエデンにほかならぬ。
「東洋文化の根底にあるもの」新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙 著、上田閑照 編
なるほど... (>_<)
たしかに、、あのときは大変だったね と述懐するときは、そのときの苦しみは過ぎ去った今となってはかえって懐かしい思い出として感じられるからねぇ...
A. どんなことであれ、なにがどうあれ、「生きている」ということを実感した時
新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙 著、上田閑照 編 その1[番外]
新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙著、上田閑照編 その2[番外]
新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙著、上田閑照編 その3[番外]
新編 東洋的な見方 / 鈴木大拙著、上田閑照編 その4[番外]