水灑不著、 風吹不入、
みずそそげどもつかず、かぜふくともいらず、
水を灑げども著かず
水をかけられてもまったく濡れないものがある、それは何だかわかるか? そのことがよくよく分かったならば、、、
「いったい、人間というものは、自分の見るもの以上には見れないのです。」
うなずくばかり
「無分別が転じて分別になっても、その分別は無分別なのです。
また無分別がそのままで分別なのです。」
その日の提唱は長く記憶に残るものになるだろうなぁ...
法を伝える、伝えてゆく、法が伝わる、、師から弟子へ、曹源の一滴水はそうして伝わりつづける、、そんな厳粛な気持ちにさせられた一場面
その深い意味に自然と涙が出た、親から子へ、いったい僕は何を伝えられるのか、、
日曜の坐禅会でそんなことを経験したとき、この場面をふと、、
ある禅僧 (老師) の話 〜 いつかのメールより 〜
ある時その禅僧 (老師) に若い弟子が昔の禅僧 (A) とそれより少し時代が下った頃の禅僧 (B) はどっちが偉いかと問うたらしい
禅僧 (老師) は 「Aだ」 と答えた、じゃあ禅僧 (B) とそれよりも更に時代が下った頃の禅僧 (C) はどちらが偉いかと問うと、禅僧 (老師) は 「Bだ」 という
若い僧が 「とするといよいよ禅宗も先細りですね、じゃあ少し前の時代の禅僧 (D) と老師様はどちらが偉いか」 と更に問うと、禅僧 (老師) は「わしかな」 と答えたという
それを聞いた弟子は、先細りなどと言われたので、いよいよいいかげんなことを言い始めたなと、日頃の反発心もあって、
「では老師様と私はどちらが偉いか」
と、面白半分に問うと、
「それはまだわからんよ」
と、間髪を入れずに応えられたのだった...
この老師はとても厳しい方で、問うた若い弟子に対してもとても厳しかったらしい、が、しかし、、普段は人を人とも思わぬほどに厳しく接する老師だったが、実はその弟子の中に、十年後二十年後三十年後の、立派になるであろうその姿を見ておられたのだ
若い弟子は、その間髪を入れぬ老師の応えに ハッ として、本当の意味で真に、こころから師を師として思い自然と素直に接することが出来るようになったという
「それはまだわからんよ」 とは、励ましの言葉なんだね、、
「お父さんと〇〇はどちらが偉いか」
「お父さんと〇〇はどちらが素晴らしい人生を歩むのか」
それはまだわからんよ
〇〇がこれからどういう道を歩んでいくのか楽しみだ
これがお父さんからのエールです
では、明日から落ち着きつつ精一杯👍✨
〜ここまで〜
名前を呼ばれた若い修行僧が 「はい」 と応える、その日の坐禅会の進行役として行き届いてないことを提唱の最中に管長さんから指摘を受ける
でも、
その 「はい」 と大方丈に響く声だけでも、指導が、修行が行き届いていることがよくわかった、とても気持ちのよい 「はい」 だった、管長さんも丁寧にかつ簡潔にその至らぬ点を伝え、修行僧も即座に実行する
その修行僧もいづれは伝える側になるんだなぁ、、曹源の一滴水 はこうして、伝わってゆく...
文字となった講演録を読むだけではわからない、まさに、目の前で展開される生きた講義、そんな一場面を体感させていただいた、とても印象の深い時間だった
「もっと一般的に自分らにも通ずる言葉を使ってみますと、
向うに電車が通ります。そこに電信柱が立っています。
あなた方が自分の下らぬ話だが、それをきいてくださる、
喉が乾いた一杯水をのみましょうかと言うと同じことなのです。」
うまいなぁ... さすが大拙博士
百花春至って誰が為にか開く
虎歩龍行、鬼号神泣
とらのごとくあるき りゅうのごとくゆく、きさけびしんなく
そのことがよくよく分かったならば、
虎や龍のように歩んで行くことが出来る
無心ということ / 鈴木大拙
1939.5、鈴木大拙六十九歳の講演録