東叡山寒松院 (幕末明治期ゆかりの仏閣巡り⑪) [東京都] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

彰義隊墓 戦死之墓 山岡鉄舟揮毫



ちなみに、

上野公園内には、彰義碑 の篆額の他にも、家達公揮毫の碑を見ることが出来る
ひとつは今ある寛永寺根本中堂境内に

今ひとつは、、、


幕末明治期ゆかりの仏閣巡り⑪

彰義隊編その弐


東叡山寒松院


江戸城無血開城目前の慶応四年四月三日、
彰義隊は、当初の浅草東本願寺から上野東照宮別当寺であった藤堂高虎菩提所である 寛永寺寒松院 へ拠点を移した


御朱印
幕末明治期のシリーズとしてはまだいただけていない、、
ご住職のいらっしゃる時間とお参りする時間とがなかなか合わないんだなぁ💦

でも、いつか、いつの日か、、


以前、いただいた御朱印は家康公の月の御命日に



東叡山寛永寺寒松院
天台宗
津藩主藤堂高虎公開基にして菩提所
寒松院とは天海大僧正が家康公の死を前に高虎公に授けた法名、
その法名が院号になるようで上野東照宮の元別当寺でも
三重県津市にある高虎公菩提寺寒松院にもお参りしたい


慶喜公恭順の地である上野寛永寺大慈院 (廃寺) にあった 葵門 は、今は浅草浅草寺境内に

雪の葵門



時下り、

当時巣鴨に住んでおられた慶喜公はこの日、皇居に参内し明治天皇に謁見、明治天皇は後にこのことにふれ伊藤博文にこう語ったという

 「今日、やっと罪ほろぼしが出来た、なにしろ、慶喜がもっていた天下を取ったのだからな。
 慶喜も、酒盛りをしながら 『お互いに浮世のことで仕方がない』 と言って帰った」


時に、明治三十一年三月二日 (1898.3.2)、江戸城無血開城から実に三十年後のことであった、、


文晁碑 家達



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