そこで終わりとする
二の矢を受けず、、
かぁ...
ありがたいことに同じことなのだ
いつも説いてくださっていたことは、、、
そこで終わりとし、
明かりを消す
にしても、、
暑...
曹洞宗の禅僧 良寛和尚 に有名な言葉がある
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
これなどは、中でも有名なもののひとつだろう
でも
じゃあ どういう意味なんだ?といえばこれが、
中々うまく納得出来なかったんだなぁ... そのときまでは、、
そもそもこの言葉、
良寛さんが、災害にあった友人に送ったものだというから、
余計にわからなってしまったのだ
よく目にするのは、
成り切ることだという解釈だけど、知識としては分かるが、
でもねぇそんなのはただの知識だから、、
安禅不必須山水
安禅は必ずしも山水を須いず
滅却心頭火自涼
神頭滅却すれば火自ら涼し
碧巌録 第四十三則 洞山無寒暑 評唱より
あんぜんはかならずしもさんすいをもちいず
しんとうをめっきゃくすればひおのずからすずし
この 自ずから というのはきつい一言で... 厳しいとすらいっていい
それはそれ、良寛さんのいう、
災難に逢うがよく候 であり、死ぬがよく候 に通じる...
と云えば、
飛躍しすぎか
親に先立ち亡くなった子供らは、
その不孝を嘆く両親のために賽の河原で小石を積み上げ供養塔を作ろうとする
が、
積み上げては崩され、また積み上げては崩され、、
鬼は何故に崩すのか?
災難に逢うがよく候、
なんの落ち度もないというのに、、
死ぬがよく候、、
この世に生きるということは、
成り切るということは、、
そういうものだと受けとめていかなければ、
その子とて成仏は出来ぬということか
三回忌 というのは 大祥忌 といって、新しい兆しという意味があるそうで
前に一歩踏み出していく
そのきっかけになればと先人がつくってくださった
ひとつの節目なんだろう
あるいは 祈り かな
一説には、
い は命の い、生きるの い、
のり は祝詞 (のりと) 、宣言のことだとか
祈り には、そういう語源もあるんだね...
洞山無寒暑
ある僧が洞山にこう質問した 「寒暑到来せば、如何か廻避せん」 、
この寒さ (暑さ) から逃れるすべはありますか?
洞山はこう応えた 「何ぞ寒暑無き処に去らざる」 、
どうして寒くもなく暑くもない処へ行かないのだ?
僧は続けて、そんな寒くもなく、暑くもないところがありますか?と問うと、、
「寒時は闍梨を寒殺し、熱時は闍梨を熱殺す」
かんじはじゃりをかんさつし、ねつじはじゃりをねつさつす
果たして逃げ切れるものだろうか、自分自身から
滅却心頭火自涼
ここでの寒い暑いは単に 寒い暑い のことを言っているのではないよね
暑い寒いを気にしてそこから逃げようとしている間は、
そのことに囚われたままということなんだろう
浄不浄を基準にした浄なら、それはもう 美しい とは言えないのと同じで
この世に生きるということは、時に、
そういうものだと受け止めていかねばならない
そうそのとき思った
これはこれ災難をのがるる妙法にて候...
そんな鬼のような、しかし、深い深い言葉だなぁ...
暑い、、
だけど、
木陰には涼風が吹く
音楽が終わったら
When the music's over,
明かりを消そう
turn out the lights.
The Doors - When the Music's Over (Lyrics)
https://youtu.be/jC5aQ3Lq4vI
いまでは年に数度しか参加出来ないけれど、
禅の語録の提唱、最近の管長さんの言葉を借りるなら 禅のお話 が
月に一度の坐禅会のあとにあり、その会に通いはじめてかれこれ五年ほどになる
その お話 にもあった 洞山無寒暑 の一則は、前々から指折り数えては心待ちにしていた
なんてったって歴史好きにはたまらないあの快川和尚の言葉で有名なのは知っていたからね、
拝聴している間中は、その歴史の中に身をおいているようで、、また、
その日の管長さんの お話 は、新たなものの見方を教えてくださっているようで
これまたすごく感動したなぁ... いつか、いつか、恵林寺さんにお参り出来たら、
山門にかかるというこの聯をこの目で見てみたいものだ
安禅不必須山水
滅却心頭火自涼