稲園山長福寺 (通称七寺) [愛知県] (”震災から六年”) | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

早離 と 即離 の思いは 聖観世音菩薩 と 勢至菩薩 へと生まれ変わっていく...



稲園山長福寺 (通称七寺)




 

聖観音、大勢至両菩薩





二柱、または、二佛を一項の中に書かれる場合が稀にあって、


例えば、



 

三囲神社
隅田川七福神巡り
恵比寿様、大国様


例えば、、



 

黄梅院
大本山円覚寺百観音霊場専用御朱印帳
聖観世音、千手観音
管長さんの書だねぇ✨師家時代に書かれたようだ


そして、


ここ 七寺 さんの御朱印には、 聖観世音菩薩勢至菩薩 の両菩薩が、、

華厳経」 というお経に出てくる 説話 だ


 

 

早離即離 の幼い兄弟は、早くに父母と死別し毎日泣いて暮らしていた。
 

あるとき心の良くない男が兄弟の前にあらわれ、
 

父母に会わせてやるからと小さな島に二人を連れていってしまった。
 

だまされたとは知らない兄弟は、島中を探しまわるが、もちろん会えはしない。
 

ついには、飢えと疲れで、その島で果てるのである。


その臨終の間際に、

 

 

弟の 即離 は、自分たちの薄命を嘆くが、

 

それを黙って聞いていた兄の 早離 は、弟をなだめてこう言う。


 「わたしもはじめは世を呪い、人を怨んだ。が、この離れ小島ではどうにもならない。
 

 ただ、身をもって学んだことは、早くに親と分かれたことと人にだまされることの悲しさと、
 

 飢えと疲れの苦しさだ。ならば、次にこの世に生まれてくるときは、
 

 この苦悩の体験を縁として、同じ悲運に泣く人たちを救ってゆこう。
 

 他をなぐさめることが、自分がなぐさめられる道理であることを、
 

 われらは学んだではないか。。。」

 

 

そのとき弟は、はじめて兄のことばを理解すると、

 

はればれとした顔になり、互いに抱きあって息絶えた。
 

その時、二人の顔には、しずかな明るい微笑が浮かんでいた。


その兄が 観世音菩薩 、その弟が 勢至菩薩 である。


その二人の連れていかれた島を、補陀落山 (パーリ語 / 仏教聖典用語ポータラカの音写) と云い、

 

その訳名を、 白華山 、または、 日光山 という

 

 

 白華 とは、無色純粋の清らかさのこと

 日光 とは、陰影のない光明のこと


早離・即離の兄弟の名前は、

 

やり直しのきかない、二度と返ってこない、かけがえのない人生の暗示

自分の不運を嘆くだけでは永久に幸せにはなれない、

 

それを温かくして他に返すことによって、怨みが慈しみへと変わり、

 

そして、自分も他人とともに救われる、、


それを仏教では 供養 というそうだ
 


うーん、、、、


なかなか出来ることではないけれど、、

 

昨今の世の中をみるにつけ、なるほど、考えさせられることだなぁ... と、、、


だから、


七寺 さんの両菩薩の御朱印を前々から御縁日にいただきたかったんだよねぇ... 

この 説話 を思いながら 観音様 を拝む、その感慨もまたひとしおで

 

 

お仏像はお釈迦様の悟られた心境や内容を象徴しているから、

 

各々のお仏像にこういった 説話 があるんだろうなぁ...

 

 

稲園山長福寺 (通称七寺 (ななつでら))
真言宗智山派
観音様の御縁日になる十八日に

 今でこそ聖観音様が御本尊だけど元々は脇侍、

 米国による名古屋大空襲で焼失した阿弥陀様の御佛像が

 本来の御本尊として安置されていたようだ

 でも真言宗で阿弥陀様が御本尊って少し違和感があるような?、、

 行基菩薩 (法相宗) が御開山だからかな (°_°)??

 後に 法相宗 から 真言宗 (智山派) へ改宗されたようだから
 でもでも普通なら尾張の地で阿弥陀様とくれば 浄土宗 への改宗だよね?

 どうして 真言宗 だったんだろ?

 すぐ近くの大須観音 (真言宗智山派) と何か関係があるのかな?

 ここら辺はまた次にお参りした時にうかがってみよう ◎

名古屋市中区大須

 

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