それはそれ神社へはお寺さん以上にこだわりを持った巡り方をしているのと、というか、
こだわり以外にないのだけれど、、その割に神社用に用意している御朱印帳は少ないという、、
御朱印をいただく比率がお寺さんの方が圧倒的に多いのは、やはり、お釈迦様が人だからか、
六年冷坐された後に諸行無常を悟られたというお釈迦様は、、、
他方、神様はどうもよくわからない、もちろん人からすれば分かるはずもないから神様なのだが、、
はかりしれないものの象徴としての神というのは、、、
監督が好きだったという明石海人の詞
その詩をよんで、
「今、僕が泳いでいる海はますます暗い。
そんな世の中に一筋の光をともして生きて行くんだ。
それが断固として貫きたい僕の生き方」
有志によって植えられたというモニュメント横には「しだれ桜」、
京都平安神宮の桜と同じ種の「紅しだれ」
山号と寺号の由来が書かれた御朱印は初めてで
寒巌幽谷ノ面々ハ春ニ廻ル
建長寺御開山の蘭渓道隆禅師(大覚禅師)が残された言葉だとは、
いただいた回春院だよりに
そして、
その二年後、、
何とは無しに久しぶりに開いた「こころ」は、以前と比べ、ずいぶんと読みやすかった、
何故だろう (°_°)?
東京近郊に暮らしながら読書を嗜む、そんな楽しみのひとつはその実際に描かれた風景を、
時代が移り変わったとはいえこの自分自身の眼で見るということ、それが出来るということ
私の先生と出会ったのは鎌倉とあったが、鎌倉や上野、雑司が谷と書かれても、
文字としては頭で理解してはいたのだろうが、とても日常の風景としては体感出来てはいなかった
さらに読み進めると唐突に、先生の奥さんの父親は鳥取にいるという文章に出会う、、
ほ〜、何故に鳥取としたのか (°_°)?
自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出す程に奥さんは
現代的ではなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
こころ / 夏目漱石
確かにそういう現代人は多いのかも
英国から帰国して後、
漱石の講義を聴き、そこから漱石と交流が始まった人物に生田長江がいる
その後も交流は続き、漱石で云えば「門」を書き終えた頃になるか、1910年/明治43年とあったが、
長江の執筆原稿掲載をめぐって諍いがあり、ふたりの間に亀裂が入ったようだ
長江は旧帝大で哲学を修め日本で初めてニーチェを本格的に紹介した人物でもあり
(1909年/明治42年”ツァラトゥストラ”を翻訳)、また、平塚らいてふに女性による文芸雑誌
(長江は「元始、女性は太陽であった」の”青踏”の名付け親)の発行も勧めている、
ジェンダー視点を提起した人物でもあったようだ
そしてこの生田長江の生まれ故郷が、、
鳥取、我が郷里、、だったとは、、、
漱石がそこまで知っていたとは思わないが不思議な符合で
1909 ツァラトゥストラ翻訳
1910 「門」 連載開始
1911 青踏発行
1914 「こころ」 連載開始
長江は1925年/大正14年から1930年/昭和5年にかけ鎌倉は由比ヶ浜に住んでいたようだ、
その後転居し1936年/昭和11年渋谷の自宅で死去、今は鎌倉は長谷寺の高台にある墓域に
夫人の遺骨と共に眠っている、、、戒名は、
「聖傳院長江棹舟居士」
夏目漱石
(1867.2.9/慶応3年1月5日-1916.12.9)
生田長江
(1882.4.21-1936.1.11)
ん (・ω・)?
ちょうど11日には、
大祥忌(三回忌)を前にした週末ということもあり回春院さんへお墓参りをしようと思っていた、
でも、まさかその11日が長江のご命日にあたっていたとは、、
偶然は偶然なんだけど、何だか、はかりしれないものだなぁ... と、、、
イヤ • • •
それこそが • • •
本当の神の仕業なのか • • • • • •
大島渚
(1932.3.31-2013.1.15)
そんなことを思いながらその日は、回春院さんを後にし長谷寺さんへ歩みを進めた、、
その日のモニュメント②
法要の後にうかがったところ、和尚さんにどうぞと誘われ本堂へ、
監督の位牌を前にしばし合掌させていただいた
悲しい話だけど、
ほんの少しだけ近付けたような気がした、
一般人が著名人にふれることが出来るのは、
そのほとんどはその方が亡くなった後なんじゃないだろうか、、
深海に生きる魚族のように自ら燃えなければ何処にも光はない
大島渚
幽谷山回春院 (建長寺境内塔頭)
臨済宗建長寺派
神奈川県鎌倉市
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巨福山建長寺1 [神奈川県]
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