「紅葉がきれいなので、私の箱根の別荘でお話ししませんか」
こんな素敵なお誘いをいただいた。経営相談をお願いしている先生である。
いつもは先生の都内の事務所で打ち合わせをしている。この日は先生と会うための時間を十分にとっていて、夜の講座までなにも入れていなかったので喜んでお受けした。
そして、常宿の蒲田の温泉旅館を出て、京浜東北線で一駅の川崎駅に行き、特急『踊り子号』で旅情を感じながら小田原まで行ったのである。
先生の別荘は強羅にあるのだが、せっかく箱根まで来たので、姥子温泉『秀明館』でひとっ風呂浴びようと考えた。
そこで、箱根湯本のトヨタレンタカーで車を借りると便利だと思い立ち寄ったのだが、な、なんと、免許証を入れたバッグをホテルに置いてきてしまったのである。
仕方がないのでケーブルカーで行くことにした。が、結果、これが大正解!
「神様、ああ、やはりあなたはいらっしゃるのですね‥‥♥」
ケーブルカーから見下ろす箱根の道路は、それはもう大渋滞であったのである。平日とはいえ、紅葉の盛りの箱根はここまで混雑するのであろうか。
それは道路だけでなく、ケーブルカーも、そのあと強羅から姥子に行くために乗ったロープウェイも同じであった。しかしながら、高みから眺める紅葉に染まった箱根の山は素晴らしいのひとことであったのである。
午前中に先生との打合せはほぼ終わり、「よかったらランチでも」とお誘いをいただいた。
それはもう、おごってもらうのは大好きなので、「ぜひに!」と行きたいところだったのであるが、昼食後は姥子温泉につかり、夜の講座までに新幹線で小田原から東京まで帰らねばならなかったので、時間的にちょっとあぶなかったのである。
「断腸の思い」とは、こういうときに使う言葉であろう。先生のお誘いを泣く泣く断り、私は温泉へと向かったのである。
「箱根のランチ‥‥。さぞや優雅でセレブで美味であろうな‥‥」
そうまでしても、姥子温泉『秀明館』にマメに行かねばならぬ理由があるのである。
この宿、いまは天山グループが買い取り、西洋型の日帰り温泉入浴施設になっている。しかし、私が初めてこの宿にやってきたときは、母子二人で経営されている、けっしてきれいとはいえない施設であった。
お湯は5月ごろに湧き出て、9月ごろには止まるという季節営業であった。
しかも、自然湧出のこのお湯は激アツで、ホース3本ほどで水を引いていたが、冷やしても冷やしても激アツであった。それこそ、2,000円の入湯料を払い、手足だけつけて帰らねばいけないということもたびたびあったのである。
それでもなんとか経営がなっていたのは、たまにお湯加減がよくて入れるときがあり、そのかすかな可能性に期待して行く人も多いという、それほどの絶品のお湯だからである。
ちなみに、ほとんどの人が首までしっかりつかることができないといわれたこのお湯に、私はある年の5月、奇跡的につかることができたのである。
そのあまりの気持ちよさから、私はいまもここを“日本一のお湯”と認定しているのである。
そして、もう数年前のことであろうか、ここの施設がすべて取り壊され、福祉施設に建て替えられるということになったのである。
が、たまたま入浴にこられた天山の社長がこの話を聞きつけ、「なんとかこのお湯を守りたい」と手付金500万円をすぐに用意し、買い取ったそうなのである。
その後、大金を注ぎ込んで湯船や館内をリフォームし、『秀明館』は純粋にお湯を楽しみたい人のための施設に生まれ変わったのである。
到着したら、2,500円を払うと浴衣とタオルを貸してくれて、個室に通される。縁側付きの広い部屋の場合は3,100円。部屋で浴衣に着替えたら、何度でもゆっくりとお湯に入ることができるのである。
個室は十室程度しかないので、混んでいればすぐに満室になる。つまり、どうがんばっても、日に3万円程度の売上であり、維持するのが精一杯であろう。
注ぎ込まれた大金は、今後もおそらく回収することは不可能であろう。ただただ、このお湯を守るために、大赤字覚悟でこの施設を残していただいたわけである。
温泉マニアの一人として、心から敬意を払うとともに、できるかぎり訪れたいと思っているのである。
みなさんも、よろしければ一度、私が“神様温泉”と呼んでいるこの姥子温泉『秀明館』に足をお運びいただきたいのである。