人が食べ物を選ぶとき、何を基準にして選ぶのか?

 

人間の食べ物は、集合意識のパターンが創造したもの。

 

山野に自生する植物、野生の動物、川や海からの魚貝、海藻の恵み、

ごく限られたそれらのものから、人は知恵や技術の進化とともに、

季節を問わず、飢えることのない食環境に辿りつきました。

 

菜食主義、ベジタリアンは、食環境が充足するところから派生しました。

 

動物が意識をもっているならば、植物も意識を持っています。

どちらも私たちの食卓に上がるのは、その命を殺さなければなりません。

 

動物は、感情を持っていますが、植物のもつアストラル界の高尚な意識は、

それよりも低いと判断されるのでしょうか?

 

初見でも、植物は私たちの意識に反応しています。

人が刃物を隠し持っていても、恐れというアストラル的な感情を植物は認識します。

 

私達は、そこに波動的に共振することが出来ますが、

それは、植物が持っているアストラルエネルギーであり、

人間のもつ感情とは、似て非なるもので、投影とは違います。

 

植物のエネルギーを感知すると、そのエネルギーを通して、その周囲にあるエネルギー、

例えば、その植物が置いてあるフロアーで働く人のもつアストラルエネルギーや、

できっごとを敏感に感知することも可能です。

 

すべてのものが、蜘蛛の巣の網のように、この世界に存在するものは、存在そのものの波動で

繋がりあっていますが、植物のもつバイブレーションは、それを繋いでいく働きがあります。

 

蘭のもつ意識は、私たちが植物にイメージをはるかに超えた、繊細で広大なものです。

そこに繋がることができない人の意識の方が、低いこともあるやもしれません。

 

ホメオパシー、フラワーエッセンス、レメディーが効果のある理由です。

 

私達は、物理的なものが見える、聞こえる範囲での認識で、現実世界は成り立っていまるように錯覚しています。

 

食の選択は、その人の認識の問題ですが、日本人は「いただきます」という言葉どおり、

他の存在の命をいただくことで、自分の命がそれを通して継ながれていることを知っています。

 

アイヌのイヨマンテは、拾って1年かけて可愛がり育てた子熊を殺し、その命を頂き、魂を天に還す儀式です。

子熊の魂は、命が尽きる前に、天へと還り、私たちの生命と同化します。

 

食物となるものの魂は、すべてその目的になるために存在することを知っている。

という考えもあります。

 

この世界において、あらゆる生命をもつものは、その存在の経験を通して進化の途上にあります。

 

菜食主義、ベジタリアン、肉食の選択は、どれも一人一人の認識の中にあり、自分の肉体と意識との向き合いです。

 

 

しかし、これは、レプティリアンが、人間の性エネルギー、恐怖のアストラルエネルギー、ホルモンや血肉を生きたままシェイプシフトのために人間を食らう、虐殺とは、また別な霊的なレベルだと考えてほしいのです。

 

生きるうえで、対峙する存在を敬い、大切にする、そんな基本的な価値観のうえに成り立つものだと思うのです。

 

これから、レプリケーターが出てくれば、食べることに困ることはなくなっていくでしょう。

食の環境が進化すれば、植物や動物との関係性も変化してくるでしょう。

 

食べる食べないが問題ではなく、そこに愛はあるんか?

 

世界が自分の映し鏡だとしたら、そこにどんな関係性をみいだすのか、

善し悪しのフィルターを外した時に、見えてくる世界は、変化していきます。