(15)日の丸を掲げた蝦夷_c0164670_1824162.jpg

 

「日の丸」の起源としてもっとも確実な絵画は「清水寺縁起絵巻」(東京国立博物館蔵)だといわれています。

 

左の船の日の丸は、元々、平安時代に、東北(蝦夷といわれた)にあった日高見国(ひたかみのくに)のもの。

 

関東以北には、西から来た渡来人に追われた縄文人の末裔が住んでいました。

未開拓の野蛮な田舎というイメージが作られていますが、実際は、金鉱があり、資金豊富で、シャーマンの偉大な巫女もいて、

平安時代には、青森の十三湊近くには、海外とも交易をするような、朝廷が及ばないほど栄えた都市もありました。

その豪華さを、朝廷は、妬み、手に入れたくて仕方なかった。。。

 

平安時代に、朝廷が、日高見国の豊かな金鉱を奪うために、蝦夷(東北)征伐を何度も繰り返しましたが、、、強い!

左の日高見国と右の朝廷から遠征軍との船の大きさ、装備の違いを見てください。

 

なかなか勝てなかったのが、桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が蝦夷遠征をして、日高見国の阿弖流為と和睦を結び、阿弖流為を京都に招きました。

 

田村麻呂の思いとは裏腹に、阿弖流為たちは、朝廷により斬首刑にあい、日高見国の旗も朝廷により、盗まれました。

 

朝廷は、跡形も残らぬように、皆殺しにして、生き残った人たちは、北海道へと逃げ延びました。

何万人も暮らしていた都市は、平安時代に一夜の地震で崩れさったと、残った記録がありますが、いまだに公にされようとはしません。

これらは、影の日本史として、あえて葬られてきたのだと思います。

 

 

 

サロンの近くにあった坂上田村麻呂が寄進してつくられた清水寺に、阿弖流為の石碑があり、家の近くに、阿弖流為の首塚があるので、調べました。

 

日の丸は、本来のYAPの象徴なんですね。

 

朝廷は、その豊かさと繁栄を我が物にせんと、その象徴である「日の丸」を奪い取った。

 

 

そうした歴史の続きを、私達は、細胞に刻み、無意識の中から思い出しながら、今もこうして、時を超え、生き続けています。