キミが ひとり祈ったところで、
明日 世界が変わるわけではない。
でも キミがほんとうに
祈りの意味を知ったなら、
キミ自身が変わるだろう。
祈りとは、願うことではない。
むしろ、願うことをやめて、
沈黙の言葉に耳を傾けることである。
夜にひとり、悲しみに暮れるとき、
キミはじぶんが孤独だと感じるかもしれない。
誰も自分の事をわかってくれない、
そう感じるかもしれない。
でも、そのとき キミは世界と繋がっている。
世界に孤独や悲しみのない人はいないからだ。
「悲しみ」は、見えない世界で
キミと他者(世界)を結びつけている。
「悲しみ」を経て、ぼくたちは
他人の悲しみを理解できるようになる。
キミが悲しんだ分、キミの愛は深まっていく。
かつての日本人は、
「かなし」を「悲し」だけではなく、
「愛(かな)し」、「美(かな)し」と書いた。
どんな「悲しみ」も必ず「愛(かな)しみ」になり、
どんな「哀しみ」も必ず「美(かな)しみ」に変じる。
キミが 愛する者と出会って
最初に手にしたのは悲しみの種でした。
ようやく巡り会うことのできた
あの瞬間に いつか必ずやってくる
別れもまた 与えられていたのです。
「悲しみ」は
生者と死者が 出会う場所。
私たちが 死者の想いと共に
生きるとき、「共時性」が起こり、
別れの「悲しみ」は
少しずつ「愛しみ」になる。
シンクロニシティは、
生者と死者の間を結ぶ
「永遠のいま」から起こってくる。
何かが行き詰まっているとき、
あきらめることで、
新しい扉が開くことがある。
あきらめることで、
人生が拓けることもある。
握りしめてきたものを手放すことで、
本当に大事なものが見えてくることもある。
顕在意識では、
「家族から、逃げる」
「問題や相手を、責めている」
でも、超意識では、
「じぶんの本音との調和から、逃げている」
「じぶんの本音との調和を、責めている」。
だから、自分という人間を
「怖れ(頭)」で作り上げるのではなく、
「 本音とヴィジョン(ハート) 」で作り上げる必要がある
怖がる思考や感情があると、
自分の真のヴィジョン(未来記憶)を
人は見ることができない。
怖れの感情が 死角になって、どんな情報を目にしても、自動的に怖れが限定的な見方や自己保身の行動をしてしまうため、新しい未来の可能性が隠れてしまう。