「ディスクロージャー・デイ」と「スクリーンメモリー」
映画「ディスクロージャー・デイ」公開日記念で、物語の本筋ではなく、その背景にある「もうひとつの物語(実話)」について書いてみた。おそらくスピルバーグにインスピレーションを与えたと思われる作家がいる。ウィットリー・ストリーバーだ。1985年12月26日。彼は ニューヨーク州北部の森にあるキャビンで、ストリーバーは奇妙な体験をする。その翌朝、彼が最初に覚えていたのは、窓の外から自分を見つめる一羽のメンフクロウだった。ところが、家の窓やドアは閉まっていて、フクロウが入り込むような状況ではなかった。本人は「何かがおかしい」と感じた。そして、その後、断片的な記憶が蘇ってくる。小さな人型の存在。大きな黒い目。身体を動かされる感覚。医療処置のような体験。そして、記憶の欠落。ストリーバーはその体験を1987年の『Communion』に書し記した。この本は、後のUFO/アブダクション文化に非常に大きな影響を与え、彼自身は後年も、遭遇した存在を必ずしも「宇宙人」と断定せず、「Visitors(訪問者)」と呼んでいる。そして 重要なのが、「フクロウの記憶は、本当に起きたことを覆い隠すスクリーン・メモリーだったのではないか」という彼自身の解釈だ。「スクリーン・メモリー」という奇妙な概念スクリーン・メモリーとは、もともと精神分析で使われてきた概念だ。強烈な記憶や受け入れ難い経験が、そのままではなく、別のイメージに置き換えられて記憶される。UFO体験の文脈では、実際は遭遇体験があったのに、「動物を見た」「夢を見た」「普通の出来事だった」という記憶だけが 残っていること。ストリーバーの場合、その動物が「フクロウ」だった。 その以降のUFO/アブダクション体験談の中で、「巨大なフクロウのようなものを見た」という話が 各地で出てくるようになる。その中に120cmほどの巨大なフクロウのような存在を見たという人も 複数現れる。120㌢というのは、グレイ・エイリアンと同じ大きさ。さらに別の体験者が語った宇宙人の目について、「フクロウや猫のような夜行性動物特有の反射して光る瞳だった」という証言も紹介されている。 興味深いのは、「フクロウの目が、グレイの目に似ている」という所ではなく、「宇宙存在が動物の姿を借りる」という話と、「人間の脳が 宇宙人を 動物として認識・記憶する」という話の両方が成立する所かもしれない。「UFOを見た人は、フクロウの記憶がある」という話だったが、一部の日本人の場合は、カラスや鹿、蛇というケースもある。いずれにせよ共通しているのは、“不思議なタイミング”で現れること。たとえば、人生の大きな転換期。精神的な危機。UFOや光を見た直後。「自分は何のために生きているのだろう」と人生に迷っているとき等に、突然 動物が現れ、こちらの目を覗きこむ。これを読まれている人の中にもそんな経験があるかもしれない。日本神話と北欧神話では、カラス神や見えない存在は、動物を「使者」として遣わし、「動物の目を通して、 人間や世界を観察している」というのは、昔からある話で、日本神話・神道の世界観でも、動物は「神の使い」で、* 熊野 → 烏* 春日 → 鹿* 日吉 → 猿* 八幡 → 鳩* 稲荷 → 狐* 天神 → 牛* 三島 → 鰻* 辯財天→白蛇などが 「神使」 だ。〈※エジプトの神々の顔が 動物な理由も、地球外生命体が 動物のヴィジョンやイメージを使って、人間に叡智を授けていたという仮説も立てられる。〉日本を建国した神武天皇を導いたのは、カラス(鴉)だが、北欧神話のオーディンも、まさに「鳥を目」として使う。オーディン(マイティーソーの父ちゃん)には、フギン(Huginn)と ムニン(Muninn)という二羽のワタリガラスがいる。オーディンは彼らを毎朝、世界中へ飛ばし、その二羽は 世界を見て、聞いて、戻ってきて、オーディンに知らせる。という役割を持っている。つまり構造的には、オーディン↓カラスを世界へ派遣↓カラスが人間世界を観察↓情報をオーディンへ持ち帰る。これは「神は 動物を通して人間の世界を見ている」ことを意味している。フギンは「思考」、ムニンは「記憶」とよく解釈されるが、「観察による叡智」のこと。なので、単なる「伝書鳩」ではなく、神の意識(オーディンの目)が 地上へ伸びていることを象徴している。「スクリーン・メモリー」は、鏡かもしれないUFO研究における「スクリーン・メモリー」とは、未知との遭遇体験が、「フクロウ」という姿で隠されて記憶されていることだったが、この考え方には、もっと深い問いが潜んでいる。私たちは、本当に世界そのものを見ているのだろうか。もしかすると私たちは、世界そのものではなく、「自分が受け止められる形に翻訳された世界」を見ているのかもしれない。そして、それは個人だけではない。社会そのものが、人類の無意識を映し出す巨大なスクリーン・メモリーなのかもしれない。たとえば、禁止事項の多い時代は、不安の多い人々の心の反映で、炎上の多い時代は、自分をゆるせない人々の心の反映で、分断の時代とは、孤独の多い人々の心の反映…なのかもしれないだとすれば、もっと大きなスクリーンがあるのではないか。この世界そのものが、「自分は何者なのか」という究極の真実を、一時的に覆い隠すためのスクリーン・メモリーなのだとしたら。私たちは、自分を「ひとりの人間」「肉体」だと思い、世界を「自分の外側」にあるものだと思い、生まれて、出会って、失って、愛を探し続ける。けれど最後にスクリーンが消えたとき、そこに映っていた世界と、それを見ていた自分との境界さえ、最初からなかったことに気づくのかもしれない。そして、最後には、外に探していた宇宙存在や愛や神が、ずっと この世界を見ていた自分自身だったと気づく。この現象界は、「自分がそれであること」を忘れるために、神自身が見ている、壮大なスクリーン・メモリーなのかもしれない。アイデンティティ・シフティングーしみずたいき個人セッション申込みフォーム〜アイデンティティ・シフティング〜個人セッション用フォーム〜【オンラインについて】 LINE電話(音声のみ)を使用し行います。※30000円(90〜100分)ws.formzu.net