1分間に波が押し寄せる数は18回。

これは人間の1分間の呼吸数。

また倍すると36、平均体温。

また倍すると72、平常時の心臓の脈拍数。

また倍すると144、平常の血圧の範囲内。

また倍すると288、
赤ん坊がお母さんの胎内にいる日数。

人間と海はどこか繋がっている。

さらに宇宙に意識を向けると、

星座は全部で12あって、黄道十二宮と呼ばれており 

春分の日に東から上る太陽にもっとも近い星座が 

次の星座に 移り変わるのに、2160年かかる。 

12の星座全部が1周するには、
2160×12=2万5920年かかる。 

この天体のリズムが
人間のリズムと不思議な一致をしており、 

人間が1日に行う呼吸数を、
人間の1分間の呼吸数18回で計算すると、 

18×60[分]×24[時間]=2万5920回になる

この不思議な一致から何を感じるだろう? 

あなたと海と宇宙はどこか繋がっている。

 


クリシュナムルティはこう言った 

あなたが、世界だ」と。 


もし あなたが【感謝】をもって生きれば

世界と人々に【感謝の心】が広がる。


もし  世界と私は分離しておらず

 

【世界は 私である】という一瞥が訪れたなら 

それは【世界平和の前兆】になる。 

 

 

サナギが終わりと感じる瞬間を

蝶は始まりと感じるように…

 

苦しい時期は あなたの中で

 

新しい何かが

生まれようとしていて、

 

今この瞬間に目覚めるよう

あなたを導いてくれている

 

 

でも
自分が 何者なのかに目覚めない限り、
世界に幸福はやってこない


なぜなら 

「あなたが世界(今)」・・・だから。

 

あなたが

仲直りしないといけない相手が

 

もし いるとすれば
それは 自分であり

今この瞬間のことかもしれない。

 

(  しみず たいき  )

 


 

 

今日は こんな質問からはじめたいと思います

 

今起きていることに意識を向けてください

 

音、思考、感覚、匂いといったすべてが

 

空間に現れては消えていきます。

 

耳を澄ませば、

あなたが何もしなくても 音が現れます

 

鳥のさえずり、

呼吸する音、

家族がドアを閉める音

テレビの音

 

「【私】が聞こう」としなくても

聞くということは 自然に起こっています

 

そのあとで、

ある思考が現れてこう言います

 

「私は音を聞いている」

 

私(主体)と

音(客体)は分離していて

 

認識する人と認識されるものは

ロミオとジュリエットのように

離れているように感じられます

 

ここから思考はあるがままの現実に対して

さまざまな意味づけや思い込みを作り出す

 

でも そもそも

 

「私は音を聞いている」

って それホント?

 

音(客体)と

それを聞いているあなた(主体)がいるだろうか?

 

本当に 音を聞いている「私」が

そこにいる証拠は見つかるだろうか

 

それとも 聞くということが

ただ自然に起こっているのだろうか。

 

ここに書かれていることを鵜呑みにせず

自分で確かめてみてほしい

 

今ここで 直接体験している中で、

音を聞いている人と音そのものという

2つのものが見つけられるだろうか?

 

こちら側(音を聞く人)と

あちら側(音)の間に

そもそも境界線を見いだせるだろうか。

 

聞いている「私」

見ている「私」、

考えている「私」が

果たして見つかるだろうか。

 

それとも

現実はもっとシンプルで

 

ただ音が現れ、

ただ見るという行為が起こり

考えが勝手に思い浮かんでいる

 

そして、後付けで

そこに「私がそうしている」という

思考がただ湧き上がってきているだけだろうか

 

自分で探してみてほしい

どちらがより真実なのかを・・・

 

音が単に現れているだけ」なのか、

が音を聞いている」のか?

 

この話は信じる必要はない

自分で じっくりと謎解きをしてほしい

 

それでもまだ

「私が音を聞いている」

 

あるいは

「私がそれを見ている」

 

という思考が湧き上がってきたとしても

それ さえ許されている。

 

でも

 

「私が見ている」と考えなくても、

 

見るということが

ただ起こっているのではないでしょうか?

 

「私が木を見ている」として

その木を見ているのは誰なのか?

 

私と木というような

2つのものそこにあるのか?

 

その木とそれを見ている私がそこに存在するのか?

 

それとも、ただ一つの境目のないリアルが

そこにあるのだろうか?

 

「私が(木を)見ている」というのは、後付け表現でしかない。

 

そこから 私と木(相手)という2つの分離が現れ

木(相手)が自分の外側にあるように思える。

 

自分がどうしようもなく孤独に感じ、

ホームシックになり、

再び一つになることを大袈裟に願う

 

しかし 思考がわいてくる前、

内と外、という幻想を見る前

 

そこに自分と離れたものは

本当にあるだろうか?

 

そこにあるのはただ 

一つの空間という親密な

つながりだけではないだろうか?

 

あるがままの現実は

いつも思考以前にあります。

 

本当は

現実がただ自然に

起きているだけなのに

 

思考(ルシファー)が

 

「それは私がやった。

私が人生を選び、コントロールしている」

 

と、それを自分の手柄として

横取りしているのではないでしょうか

 

そして

それが 優劣や罪悪感、

対立など多様なストーリーを 世界に

生み出しているのではないでしょうか

 

 

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