太極推手への再考 (2) | 健康・護身のために太極拳を始めよう

健康・護身のために太極拳を始めよう

太極拳は、リラックスによるストレス解消、血行改善、膝・腰強化、病気予防などの健康促進効果以外に、小さな力で大きな力に勝つような護身効果もある。ここでは、中国の伝統太極拳の一種である呉式太極拳の誕生、発展およびその式(慢拳・快拳・剣・推手)を紹介する。


太極推手への再考(1)で述べたように、太極推手は、「最終相手のバランスを崩す」という訓練目的がある。お互いに力を与えたり与えられたりするのがなければ 相手のバランスを崩すこともありえないのだ。前述した「形だけの推手」とは 推手の規定動作を形だけ模倣し相手のバランスを崩そうとしない練習方法のことを指す。太極推手は 「以小勝大」、「以弱勝強」、「借力打力」、「四両撥千斤」(解説略、筆者の他の記事をご参照下さい)といった太極原理で相手のバランスを崩すために規定動作によるトレーニングが必要だ。しかし、形のある規定動作は形だけになってはいけない。相手のバランスを崩すことと規定動作とはあくまでも目的と手段の関係にある。目的を見失った手段自体は何の価値も持たない。「形だけの推手」はそこに問題があるのだ。 無論、目的をすり替えて形の推手で相手とコミュニケーションを取るとか体を動かす運動とするとかいうことも悪くないが、それなら先人達の血や汗から生まれた太極推手のノウハウをわざわざ利用する必要はなかろう。他のスポーツやダンスにもこのような効果が十分求められるのだ。もったいな過ぎるとしかいいようがなかろう。


一方、前述した「乱暴推手」とは、相手の動きには関係なく自分勝手に無理やりに力やスピードで相手を押し倒すケースのことを指す。この種の推手は力の大きいほうが又はスピードの速いほうが勝ちだという通念範疇を超えておらず、仮に「推手」と言えたとしても「推手」の前に「太極」を冠すべきではない。


筆者は、先日《鑑泉太極拳社記念冊子》の中で徐致一大師(呉鑑泉始祖の弟子、1958年に人民体育出版社によって出版された《呉式太極拳》は呉式太極拳の教本として有名)が1963年に書かれた記事を読んで「乱暴推手」があの時代の中国でも既にあったことが分かった。徐大師は太極推手の試合の採点方法について次のように提案した。(要約)


Case1: 大きな力で押された甲がより大きな力で押し返し、乙を規定線外へ押し出した場合、又は甲乙が膠着状態となって力の大きい甲が力の小さい乙を規定線外へ押し出した場合は、 両方へ得点を与えないか 又は甲に得点を与えず乙に罰点を与えるべきだ。(「以柔克剛」のテクニックが使えないことを理由に)

Case2: 双方がゆっくりと推手を行っている時に 甲が突然大きな力で攻め、乙を規定線外へ押し出した場合、甲に得点を与えず乙に罰点を与えるべきだ。 (「緩随」(「ゆっくりついていく」の意)ができても「急応」(「すばやい対応」の意)の能力がないことを理由に) もし 大きな力で攻めた甲は乙を規定線外へ押し出すどころか、自分のこの力によって乙に規定線外へ押し出された場合、甲には罰点、乙には得点を与えるべきだ。


すばらしい提案だ。太極推手は力による勝負ではなく、力を受けたほうが如何に対応できるかが評価のキーポイントだというのが徐大師の主張だった。 実際その提案で太極推手の気風がどれだけ好転したかは定かではない。そして残念なことに、「乱暴推手」は未だに根絶せず今日に至っても後を絶たない。この調子でいくと、真の継承者が自然現象としてこの世を去っていくにつれて 太極推手の真の姿が世に知れなくなり、 形骸化した太極拳の地位そのものが危うくなりかねない。この事態を憂慮している私どもは 上記認識を共有し、徐大師の1950年代の発想をもっとアピールし、上記「形だけの推手」の弊害も含め 関係者全員に周知させねばならないと思う。


そもそも太極推手は、相手を倒すためなら 手段を選ばず太極原理に背いてもよいといったような格闘ではない。確かに真の太極推手は難しい。難しいことを理由に、他の拳法や体格の優位を利用してごまかすようでは、しかるべき修行を怠り、太極原理の実現が永遠に望めなくなる。受けた力に対応できなければ修行方法に問題があるか修行が足りないかと新たな動機付けとなってますます探求+修行を続けていくことを提唱したい。どこまで実現可能かは個人差があるとはいえ、最終的に修行相応な成功報酬が誰でも手に入るはずだ。