40年ほど前、先輩に連れられて蕎麦をご馳走になった。そのお客さんは青森市の雲谷という地区に住んでいて、八甲田山系の入り口とも言える小高い雲谷山(もややま)の裾野にある集落のうちの一件だった。雲谷山は単独峰で、小さいながらも八甲田山の手前で目立つ存在で、市街地からも見ることができる。小さい頃から『雲谷そば』は有名で、観光施設などでも供されていた。
この地域は古来蝦夷(えみし)の集落があった。女性の首長が東征軍に激しく抵抗したと伝えられている。大和朝廷の討伐の対象となった東北全体は、大和朝廷側の歴史からすれば蝦夷だが、当人達は自然と調和して生きるアイヌ民族に連なる誇りと自負があったであろう。朝廷側はこれらの地を『肥沃な地』と称して一方的に『討つべし』と史記に残している。
朝廷や都などの集中した権力や都市構造を持たない東北の人達は、自然の恵みを上手に生活に取り込み平和に暮らしていたに過ぎない。それらの土地を他地域の権力者が奪うとは何とも情けない。東北の人々は各時代、各地域で抵抗したものの、次第に朝廷側の支配に取り込まれることになる。青森県も例外ではない。その歴史の一端が雲谷山にある。
強く抵抗した女性首長は阿弥須(オヤス)といい、弟の屯慶(トンケイ)と共にその名を残している。
そんな地に代々暮らすお客さんからお蕎麦をご馳走になった。お母さんが蕎麦を打ち、茹でてその場で頂いた。待つ間には先輩とご主人が会話し、僕の意識はどちらに集中するでもなくその場に漂っていた。少し薄暗い板の間。細かくは覚えていないが、質素な雰囲気とゆっくりとした時間はいまだに蘇る。
雲谷山や蝦夷、アイヌの人々の歴史を知らなかった当時の僕は、単純に山の暮らしに触れた位に思っていた。しかし、昔々から受け継がれてきた民族文化に触れていたのだと思うと心が震える。そういった歴史について沢山の人が知るところとなっていない現状には切なさを覚える。
津軽の粗くしょっぱい(塩っぱい)そばは心のほぼ中心に留まっている。
そして、大切なものに触れながらも気付けなかった事を強く後悔している。