アメリカがイランの核施設を攻撃し、限定的であるもののイランが報復のために米軍基地に対して攻撃した。いつまで経っても紛争は止まず、新しく勃発し、争いの種はあちらこちらでくすぶり続けている。

 古来、大和朝廷から独立した存在であった北東北の人々は、多数の豪族や有力者が存在し、勢力争いよりも合議制によって平和が保たれていた。原始民主主義が成立していたと言って良い。そこに、資源の略奪や支配地の拡大を目論んで大和政権側が攻め込んでくる。そして戦いが始まる。

 日本の歴史上、東北のみならず、多くの地域の人々が『望まない戦い』に巻き込まれていたことは言うまでも無い。


 沖縄県の平和記念公園で、全戦没者追悼式が行われた。80年前に米軍が沖縄本島に上陸して始まった戦闘は、多くの市民を巻き込み、およそ3か月後の6月23日に終了した。沖縄出身の犠牲者は民間人と現地徴用軍人を合わせて12万人を超え、県人の4人に1人が命を落とした。

 惨劇は、やがて実感を伴わない歴史になる。沖縄戦も100年、200年経過するとそうなるのかも知れない。当然、本土で(昔の言い方だがご容赦頂きたい)繰り返された爆撃による悲しみも含まれる。

 日本の軍閥が悪かったとか、米軍も他のアプローチがなかったのか、また、沖縄の司令は局地的に降参することはできなかったのかなど、責任の所在とその大小は色々と論議されるべきだろう。その中には、個人が思うところも尊重されるべきだと思う。総じて、歴史的な検証と評価を待つしか無いのかも知れない。


 僕は、初めての沖縄旅行の最終日にひめゆりの塔と平和の礎(いしじ)を訪ねた。時を経てその惨劇に触れた。

 ひめゆりの塔では幼い少女達の悲劇に娘の姿が重なった。少女達の悲惨な姿を表す文章を読み続けることができなかった。体が震えるほどの悲しさと恐怖だった。

 平和祈念館の展示は、悲しく、胸が痛み、悔しく、恨めしく、無力感に苛(さいな)まれ、様々な感情に襲われた。やはり最後まで見ることができなかった。

 息苦しさに外に出て、立ち並ぶ平和の礎の間を吹き抜ける風に包まれた時、生きていると実感した。そして、たくさんの碑銘が刻まれていることに思いを馳せた。この高台の向こうには海が広がる。何故だろう。青い空と青い海に心の底の澱みが掬(すく)われていく様だった。


 これからもたくさんの人達が沖縄を訪れるだろう。観光で、レジャーでと目的は様々だろうし、友達同士だったり家族連れだったりするだろう。


 その折には、沖縄の歴史に触れて欲しい。少しの時間で構わないし、僕が訪れた場所に限らない。実際に触れて、感情を呼び覚まし、心に留め置いて欲しいと思う。


 亡くなられた皆様のご冥福を心よりお祈り致します。