昭和20年3月26日、アメリカ軍が沖縄の慶良間諸島の座間味島に初めて上陸した日である。記憶違いでなければ良いのだが、米軍はこの機に、艦隊を指揮するニミッツの名で、南西諸島及び沖縄の占領を宣言し、日本の軍部が統治する政治権限の放棄を要求した。『ニミッツ布告』である。
軍事的、政治的な話は一旦脇に置く。
米軍の兵士が上陸してきたため、島民の多くは逃げ惑い、防空壕や洞窟に逃げ込んだ。沖縄の言葉で、洞窟のことをガマという。現在も健在の女性は、家族とともに偶然見つけた海辺の岩場にあるヌンドゥルーガマに逃げ込んだ。
隠れている時、赤ん坊だった妹が空腹からか泣き出したという。周りの大人は、米兵に見つかってしまうから赤子を殺せと迫ったそうだ。親ができなければ自分たちが殺すと。
やむなく母親は妹を連れてガマを出て行った。米兵が島を去り、ガマを出た父親と女性は幸運なことに母と妹と会えたという。
ご存知かと思うが、沖縄戦では防空壕や多くの島民が知っている様なガマには、日本兵が訪れて、民間人である住民に手榴弾を渡すなどして集団自決を命じて廻った。このような行為が更なる惨劇を生んだ。
そんな中、一部の軍人は、民間人の亡骸(なきがら)から衣服を剥ぎ取って民間人に成りすまして生き延びようとしたという。住民に集団自決を強いておいての行為としては最大限の非難に値すると思う。
当然のことながら、防空濠やガマの中には住民たちと一緒に軍人の亡骸もあったという。先程の成りすましとは違い、民間人だけに辛い思いをさせないという心が感じられる。最後の最後で命の選択にこうも人柄が出るとは。嬉しいとは決して言えない悲しい歴史である。
今、沖縄は世界有数の観光地で、最初に米軍が上陸した島々周辺の海は、慶良間ブルーと呼ばれて多くの観光客やダイバーを惹きつけてやまない。当然のことながら哀しい出来事の記憶も次第に薄れてゆく。惨劇を直接伝えられる語り部が少なくなり、継承の風化はいずれの地でも止められない。
僕は初めての沖縄旅行の最終日に、ひめゆりの塔と平和祈念資料館を訪れた。楽しむだけではなく、悲惨な歴史に手を合わせたかった。しかし、あまりにも哀しくて悔しくて、展示を最後まで見ることはできなかった。
美しい場所、楽しい場所を訪れる時に、必ず歴史に触れられる機会を、少しの時間でも持って欲しい。
『彼の地』に対する礼儀だと思っている。