車で走っていても感じる大きな揺れ。前後の車に注意しながらスピードを緩めてゆっくりと停車する。長い時間揺れてやっとおさまったと思ったら、いつも流しっ放しにしていたNHKのラジオから徐々に地震の情報が聞こえてくる。岩手県と宮城県がひどいらしい。
僕はUターンして、30分ほどの距離の自宅に向かった。程なくして、信じられない予報が流れた。けたたましい程の声の強さで、8m
の津波が来るので、すぐに逃げて!と。
青森市には津波は来ない。それでも恐ろしかった。どこで、何が、どこまでどうなるのかが全く想像できなかった。日常が一瞬で消え去った。
峠を越えて市街地に降り始めると、全ての信号が消えていた。市内全域で停電していた。あらゆる方向からの車は徐行して、様子を伺いながら、譲り合いながら交差点を通り過ぎてゆく。
途中でろうそくと電池を買った。レジスターは使えなかったが売ってもらえた。そしていつもの倍の時間をかけて自宅に着くと、妻が居た。妻は、バスに乗っていた時に地震に襲われ、一旦バスは止まり、その後バス停に降ろされたと言う。その後も揺れて怖かったと。
その後一度会社に顔を出し、家に帰った。ストーブも電気がなければ点かない。3月初旬はまだ寒い。中学校から早めに下校した娘と三人で、たくさん着込んで食事をし、蝋燭の光の中で夜を過ごした。断水していなかったのが救いだった。
次の日、土曜日の朝は、起きてから2階でご飯を食べて過ごした。二方向から外光が入り、下の階にいるよりも暖かかった。何度か余震はあったものの、青森市だとそこまでは揺れなかった。
午前11時頃、ふっと照明が付いて、少しだけ明るさが増した。停電が復旧していないか何度か点けたり消したりしていたものの、最後に消し忘れていたらしかった。三人で喜び、階下に降りて、ストーブを点けた。
ここまでが青森市での東日本大震災の記憶。
その後、テレビからは凄まじい光景が流れるようになり、震災が始まったばかりである事を改めて思い知らされた。
阪神淡路、新潟、熊本、中国地方、北海道。そして記憶に新しい能登半島。各地でおこる地震は多くの残酷な爪痕を残す。加えて毎年起きる豪雨災害。日本で暮らす以上は覚悟しなければならない災害なのだろうか。
とは言え、どの地域でも、消えぬ痛みと癒えぬ傷を抱え、生活の再建もままならない人がたくさん居る。
今、普通の暮らしが出来ていることに感謝しつつ、被災地を忘れない様にしたいと思う。