一昨年、退職を機に翌日から妻と娘と3人で山形を旅した。天童市から米沢市、山形市と3泊4日の旅行だった。米沢市では美味しい米沢牛を存分に食べ、小野妹子(おののいもこ)ゆかりの小野川温泉で体を温めた。
米沢藩は上杉謙信の後裔が治めた。しかし、会津藩時代の120万石の家臣団を抱えたまま15万石にまで減らされたため、厳しい藩財政が続いた。
農村では、飢饉もあって農地を放棄して逃げ出したり、働き手とならない女児を間引きするなど人口流出、減少が続いた。そのため年貢も集まらなくなり、財政は厳しさを増してゆく。
1767年に九州高鍋藩から養子として迎え入れられた鷹山が17歳で藩主となり、藩政改革に取り組む。藩士の給料を半分にし、一汁一菜の食事、木綿の着物を着るなど自らも率先して、藩の出費を1/7にまで抑えた。
しかし、天明の飢饉も重なり思ったようには財政は改善せず、1785年に35歳で藩主を引く決意をする。しかし、将軍の要請を受けて藩主の後見となり、再び再建を目指す。
重臣の莅戸善政(のぞきよしまさ)と共に、『武士も商人も農民も全て皆国民』という思想のもと、領民が富めば自ずと人が増えると、『富国強兵』ならぬ『富国安民』を謳った。
①赤子養育政策
子ども5人で大人ひとり分の生活費を支給
②地域福祉の充実
独居老人や障がい者、孤児を地域で労わる
③結婚支援
新婚家庭に土地を与え3年間の年貢を免除
これらの施策により農民が暮らしやすさを実感し、次第に人口が回復してゆく。
産業振興も推し進める。透綾(すきあや)と呼ばれる絹織物で、極めて薄く女性の夏着として江戸でも大人気となる。養蚕から織り、品質管理、出荷管理までを藩が行い、武士の副業にもなってゆく。農民に対して、殿様や奥方様も養蚕をやられていることを解いて廻り、藩内の一体感も生まれた。
加えて、飢饉の時に役立つようにと書籍『かてもの(糧物)』を編集する。飢饉の時に野草や雑草を使って栄養を摂れるようにと藩が1500部を印刷して領民に配布した。
上杉鷹山が1822年に72歳で他界したが、その10年後に天保の飢饉が起こる。全国で20万人が命を落としたこの飢饉で、米沢藩では『かてもの』のおかげでほとんど人口を減らすことがなかったと言う。
余談だが、この『かてもの』は昭和16年に米沢市役所が発行し、その後昭和19年に長野県が発行している。
最後に、尊敬の念を込めて今でも鷹山公と呼ばれる上杉鷹山の言葉を紹介する。
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『なぜば成る なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり』
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