テレビを見ていて、インタビューされたり、特集されたりしている人の言葉を聞いて微妙なイントネーションの違いに気づくことがある。東北かな?とか、日本海側かな?とか、九州かな?とか。その人が標準語で話しているつもりでも、微妙なイントネーションの違いで出身地が想像できるのは面白いといつも感じる。
言葉に残る『ふるさとの香り』は、単語であったり、単語は訛りがなくてもイントネーションであったり。柔らかい、ふんわりとした温かさを感じさせてくれる。
先日、ニュースの中の特集枠で、ある研究者が方言が失われつつあることを危惧すると言っていた。「今ならまだ間に合います。残す努力をしていきましょう」と。彼女は、ある単語を取り上げて、全国で色々な呼び方をされていることと、それらが地域地域で使われなくなっていることを憂いていた。標準語化されてきていると。で、なんとかせねばと。
以前から何度か触れてきたが、言葉は移り変わるものであって、それは方言であれ標準語であれ変わりはない。若い子たちの言葉や表現を聞いていると、どうにも気持ちが落ち着かなくなることがあるが、当の彼ら彼女らは当然のことながら何とも思っていないし、近い世代もやがて違和感なくその表現を使い始める。
平安の言葉と今の言葉を比べると、音は同じでも意味は全く想像できない単語がある。懐かしいと感じる人も多いと思うが、『いとおかし』は『いと』が『とても』という意味で、『おかし』が『美しい』や『可愛らしい』という意味である。音は同じでも意味が変化したり消え去ったりする単語は無数にある。
方言を文字や音声で残すことはできても、消えいく言葉を日々の暮らしの中に留めることはできない。僕ですら、深い津軽弁は理解できないことがあるし、話す人や理解できる人が徐々に少なくなれば、いずれその単語や言い回しは消え去る。それを寂しいと感じるのは分からなくもないが、使う人が少なくなる時流に逆らって、この単語を使いましょうというのは話が違う。
国語辞典は数十年に一度改編される。それは、必然である。松田龍平君が主演した映画『舟を編む』では、辞書の一語一語を拾い上げて確認する大変さと同時に、変わりゆく言葉とじっくりと向き合う楽しさと美しさを感じた。
方言の中で消えてゆく単語があっても、温かい気持ちにさせてくれるイントネーションが近い将来に消え去ることはないと思う。
大切なことは方言の単語を残すことではなく、若者たちが残りたい、戻って来たいと思う『ふるさと』を残すことである。