京の都から遠く離れて、赤く彩られた華やかな神社があるのは驚きだ。島根の出雲大社(おおやしろ)の様に古代からの言い伝えに由縁を持つ神社で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と天界の暴れん坊、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀(まつ)る。兄弟が御祭神である。
由縁もさることながら現在の威容になった事に興味を惹かれる。波打ち際に柱を打って満潮時には床下すれすれまで波が寄せる。建物は赤く、それぞれは波の上の廊下で繋がる。神を祀(まつ)るとはいえ、まさに海に浮かぶ宮殿である。
建て直したのは平清盛。時の権力者である。『平家にあらずんば人に非ず』と言わしめた平家の棟梁である。『光る君へ』の藤原氏が隆盛を誇った時代には、官職の末席に一人二人と居た程度の氏族。源氏と同じ様に、臣籍降下(皇族を離れる)をして賜った氏(うじ)であり、天皇家由来の由緒ある家系である。
下級貴族から上級貴族へと一気に駆け上がったのは、藤原氏の衰退と知略によるものだ。平清盛は藤原道長の没後90年後に生まれる。祖父の官位が従五位、父が正四位で、清盛は従一位(じゅいちい/正一位の下)である。家系でみる官位の駆け上がり方は尋常ではない。
駆け上がる者がいれば、妬(ねた)む者もいる。それら全てを払拭するために建て直されたのが厳島神社である。清盛は自身が再建した神社に京の都の公家たちを呼んで披露する事により、その並々ならぬ権力をあらためて知らしめた。海上神殿であるとともに、その形式は京の都の貴族たちの屋敷の形態を模している。自分達が暮らす屋敷との差をまざまざと見せつけられ、もう逆らえない、抗(あらが)えないと思った者も多いだろう。
清盛は大輪田泊(おおわだのとまり)という小さな港を開発して神戸発展の礎を築いた。日宋貿易の拠点として賑わい、兵庫湊(ひょうごみなと)と呼ばれた。さらに西側に厳島神社。権力基盤の大きさが窺(うかが)える。
その平家は次の世代で源氏に滅ぼされる。