横浜流星君主演のNHKの大河ドラマ『べらぼう』。その中で描かれる江戸の浮世絵。

 それでは京都ではどうだろう。江戸とは違い、彩色版画の浮世絵は流行しなかった。眼鏡絵(めがねえ)と呼ばれる、遠近法で描かれたモノクロの版画を眼鏡と言われる道具で透かし見する事でより立体視できるという技法画が流行ったが、江戸の浮世絵とは大きく異なる。江戸の土産で持ち込まれることはあっただろうが、産業として起こった形跡は感じられない。


 京都で絵師といえば伊藤若冲であり円山応挙である。彼らは襖絵や屏風など、やはり寺社仏閣や商人に支えられて沢山の作品を残した。その一方で、扇子絵や祇園祭の山車(だし)の装飾の図絵も描いている。

 若冲は京都の中心部、錦市場の主要な大商家、桝屋の長男(四代目)として生まれた。23歳の時に父源左衛門の死去に伴いその名跡を継ぎ、枡屋の四代目源左衛門となる。しかし、40歳の時に弟に家督を譲り、幼い時から描き続けていた絵に専心する。

 応挙は農家の出で、10代後半に京都で狩野派の絵師に師事する。その後、眼鏡絵で注目されて、33歳の時に応挙を名乗り本格的に絵を描き始める。支えた人物として名高いのは、三井寺円満院門主の祐常、皇室の流れを汲む妙法院の門跡(住職)真仁(しんにん)法親王や豪商三井家であった。

 若冲は錦市場を中心に、そして応挙は東山近くに居を構えていて、応挙が17歳年下である。当然親交があったものと推察できる。

 昨年、2024年10月に2人の連作が発見された。2人の接点が初めて確認されたと報じられた。個人所有の二双一曲(一折れ×二枚)の屏風絵である。応挙1787年作の『梅鯉図屏風』、その後に若冲作の『竹鶏図屏風』である。観てみたいと思うと同時に、稀代の天才絵師2人の今後の研究に期待したい。

 応挙から始まる円山派は後に分派するものの西洋絵画と融合して近代日本画を確立する。そして明治13年、京都府画学校の設立へと繋がり、現在の京都市立芸術大学(創立145年)に至る。日本初の芸術大学である。

 文化面では、祇園祭の宝昌山(ほうしょうやま)の山車の前懸(まえかけ)と胴懸(どうがけ)が有名である。応挙の見事な下絵を元にした絢爛豪華な刺繍布が今も飾られ、街を練る。


 円山応挙は日本で初めて足のない幽霊を描いたとされるが、青森県弘前市にも彼の作品がある。津軽藩の家老が亡くなった妻の供養のために応挙に依頼して描かせたもので、その後、久渡寺に奉納された。


 僕が円山応挙を実感したのは、実はこの絵が初めてだった。