平家と源氏は6年間に及ぶ源平合戦で激しく戦った。一ノ谷の戦いや、平家が滅びた壇ノ浦の戦いまでの一年余りでは平家側は不利な戦いを余儀無くされた。多くの敗残兵が各地で敗走し、源氏の追及を恐れてより遠くへ、より奥地へと逃れて行く。いわゆる平家の落人である。
落武者狩りは室町時代以前から戦国時代になっても続く、現代からすると悪しき慣習である。負け組の武者をおそい、身ぐるみを剥ぎ、首を刈る。鎌倉時代以前でも、敗残者にとっては当然その恐怖は付きまとっていただろう。
東北でも多くの落人の里がある。その殆どが太平洋側で、青森県十和田市船沢地区の梅集落も落人の里の一つであると考えられている。八甲田山系の北東の端、田代平高原から十和田市内に降りてきて、市街地との際(きわ)に当たる場所だ。
青森県八戸市島森地区(旧南郷村)では学術的にも確かであろう平家の落人伝説が存在するため、そこから更に北に逃れ、この十和田市船沢地区の梅集落が最北の里なのではないかと推測する。
全国的に有名な落人の里としては、徳島県の吉野川の支流、祖谷(いや)川の流れる祖谷渓(いやけい)の一帯が挙げられる。深い渓谷が続くこの地域では、渓谷の内側(山側)に渡るための吊り橋が掛かっていて、蔓(つる)性の木である『かづら』を巻きつけた姿が人気の観光スポットである。
このかづら橋は、わざと木組の橋ではなく蔓を編み込んだ作りにしたとされる。平家の落人達が源氏を中心とした勝ち組勢力の侵入を恐れ、周辺に異変があれば、すぐに橋を切り落とせる様にしたのだという。
落人と言えば、ざんばら髪で怪我をした武者を想像すると思うが、決してそうではない。負けた事によって生きる場所がなくなり、討伐を恐れた家族や従者も一緒に逃げるのだから。武士だけでく、家族として、集団として生きなければならなかったのだ。
現在では引き綱の芯などに、鉄のワイヤーを仕込んでいる。その芯にかづらの枝をひたすら、延々と巻き続ける。数年に一度修復のためにかづらを巻き替える。硬い硬いかづらの枝を10分ほど火にあぷって柔らかくなった瞬間に少し巻く。その繰り返しで見事なかづらの吊り橋の景観が保たれていく。
人気観光地の裏側には、遥か遠い過去の人々の想いが、物哀しくも生き延びようとする力強さが潜んでいる。