大河ドラマ『光る君へ』が最終回の放送を終えて、色々な『君』たちを推していた皆さんは、今恍惚とため息の世界にしばし留(とど)まっているのではないだろうか。
それにしても、登場人物のなかで藤原氏が多い。以前も書いたが、道長の時代には藤原氏の権力基盤は確固たるものになっていて、その藤原氏同士で競い合う構図が当たり前になっていた。
では、そもそもはどうだったのだろう。藤原氏の元の姓は中臣である。その中臣氏がなぜ藤原氏になったのか。また、繁栄の端緒は何だったのかを書いていきたいと思う。
古くは孝元天皇を祖とし武内宿禰(たけうちのすくね)に連なる、古墳時代から政治の世界に君臨した蘇我氏。その蘇我氏が権勢を最も拡大した飛鳥時代。蘇我入鹿(そがのいるか)の時代は、天皇をも凌駕する勢いだった。
天皇家を軽んずる蘇我入鹿の討伐を望む中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、蹴鞠会(けまりえ)で出会った下級官吏の中臣鎌足(なかとみのかまたり)と密談をする。その場所とされるのが奈良の談山神社(たんざんじんじゃ)の裏山、談山(かたらいやま)である。談義の時、討伐成功のあかつきには、中臣鎌足に新しい姓を授けると約束したという。
無事、蘇我入鹿の討伐に成功(乙巳の変/いっしのへん)したことを受け、中大兄皇子は中臣鎌足に藤原姓を授けた。談義の場となった爽やかな風が吹く初夏の裏山では、藤の花が咲き乱れていたと、神社の縁起とされる絵巻に記されている。政治はこの後、大化の改新へと進んでゆく。
談山神社の絵巻には、二人が出会った明日香村の法興寺(現在の飛鳥寺)での蹴鞠会の様子も描かれている。靴を飛ばしてしまう中大兄皇子を指を指して嘲笑う蘇我入鹿と、尊崇して跪(ひざまず)き靴を差し出す中臣鎌足の姿である。
中大兄皇子は二代後に即位し天智天皇(てんじてんのう)となる。