僕もかなりスマートフォンを使う様になってきたと思う。5年前迄はいわゆるガラケーだったので、調べたいと思ったらすぐスマホで、すぐネットでというのは革命的だった。
インターネットに触れたのが30年前。この時も革命的だったけれど、いかんせん載っている情報が今とは比べ物にならない位少なかったので、やはり今の時代の情報の充実ぶりはすごいと思う。
小学校4年生の頃だろうか。我が家に百科事典がやって来た。全十二巻で有名どころのクラシック音楽のレコードも付いていた。あと、世界の名画集と緻密な世界地図も付いていたと思う。
家族で何か分からないことが現れると、父はすぐ調べてみなさいと僕に言った。当然姉も調べものは百科事典だし、これがあれば怖いものなしと言った感じだった。
学校に行って友達に自慢もした。当時小学校では、家で何か新しい買い物をすると、へへ〜んといった心持ちで友達に教え、教えられたものだ。僕の勝手な印象だが、百科事典を持ったのはクラス40人の中での中で10番目くらいだったんじゃないかと思う。そもそも、本当に裕福な家庭の子が何を買ったとか、それ家にもあるよなんて言っているのは一切聞いたことがなかったけれど。
ある日『宇宙』を引いてみた。すると、5〜6ページにも渡って美しい写真と絵を交えながら沢山の事柄が掲載されていた。圧倒された僕は、ひたすら読んだ。付いて行けなくなりそうになると、すぐにその言葉を調べた。
程なくして、大学ノートに書き留める様にした。五十音順にではなく、新しく引いた内容をとにかく書き写した。百科事典は汚したくなかったので、調べた言葉にマーキングはしなかった。
学校から帰ると調べ、調べては書き、また新しい言葉に出会うと調べる。分からないことを教えてくれる百科事典との時間は夢の様に過ぎていった。
そして、その時が来た。新しい言葉、知らない言葉がなくなったのだ。全部の言葉の内容を暗記しているということではない。全てうっすらと覚えている程度だが、新たに調べる言葉に、この百科事典の中ではもう出会えないと知ったのだ。大学ノートは既に7〜8冊になっていた。
その時の感情は忘れられない。寂しく、そしてつまらないと思ったのだ。全巻を網羅した満足感ではなかった。僕は何日かして父にその話をして、新しい百科事典を買って欲しいとおねだりした。当然、高額な百科事典を一年足らずで買い換えるなんてあり得ない。諦めざるを得なかった。
その後は、本屋さんに通って宇宙に関する気になる表題の科学本を買う様になった。それらの本は、ある程度絞った事柄を細かく深く書いていて、次から次へと新しい知識を得られる感動は二度と蘇らなかった。
しかし、この百科事典との出会いが僕の宇宙好きを決定付けたことだけは間違いない。
考えてみると、百科事典には宇宙に関する事は調べ尽くしたかもしれないが、他の事柄だってたくさん載っている。物足りないと思ったことが申し訳ないとも思う。
調べること、追求すること、そして自分の意見を持つことを教えてくれた百科事典に感謝している。