日本テレビのヒルナンデスで、江ノ電沿線のグルメを紹介していた。江ノ島駅で降りて、江ノ島に渡ってあれやこれや。どれも美味しそうで、機会があったら訪れてみたいといつも思ってしまう。

 そして、次の駅が腰越。この時、色々な思いが噴出した。

 腰越は、源義経が鎌倉入りに際して兄頼朝の許しを得られず、満福寺に滞在して会見の許しを乞う書状をしたためたとされる地。いわゆる満福寺の腰越状である。


 義経は平家との一連の戦いで平家一門を追い詰め、最後には壇ノ浦で滅亡に追いやった。中でも一ノ谷(現兵庫県)の逆落としは有名だ。馬が降りるなどとんでもない急斜面を騎乗して下り、敵の側面を突いて撤退を余儀なくさせた伝説の戦いである。

 義経はその功績により、後白河法皇の意により、都を守護する検非違使(けびいし)のまとめ役として官位を授かる。しかし頼朝は血縁、配下にかかわらず朝廷から官位を授かる事を禁じていた。そのため、義経が勝手に官位を戴いた事に激怒する。

 また一方では、壇ノ浦の戦いの時、頼朝は持久戦に持ち込み、安徳天皇の身柄をお守りし、後白河法皇のもとに御帰還される事を望んだが、意に反して義経が専行し、結局安徳天皇の入水(じゅすい)を招いたことが決裂の原因ともされる。

 僕はこちらの方が腑に落ちる。


 いずれにせよ、関係悪化の修復手段として義経が選んだのが頼朝との会見であり、足止めされたのが腰越である。


 旧来からの観光名所で、今は世界中から観光客が訪れる鎌倉。おしゃれな店やグルメ、アニメの聖地、そして絶景と、日本の誇る観光地は、歴史の襞(ひだ)に埋もれてしまった運命の地でもある。


 『吾妻鏡』ではずっと腰越に滞在して、頼朝とは会えなかったとされるが、現在の歴史解釈は違う。腰越には一日滞在しただけであとは酒匂(さこう)に滞在したり、腰越状があったとしても内容に誤釈があったり、おそらくは会見を済ませて京都に戻ったりと様々な解釈がされている。


 ちなみに、一ノ谷の武者も義経ではないことははっきりしている。話は色々と膨らむものである。