妻は僕をたまに『お母さん』と呼んだり娘の名前で呼んだりする。妻の実家で飼っていた犬の名前で呼ばれたこともある。極々たまにだが、僕も妻のことを娘の名前で呼んでしまうことも。
例えば、娘の話題に触れようとする時、頭の中では娘の映像が浮かんでいるのに他の名前を口にしてしまったりする。これは、ご存知の通り、映像の記憶と言語の記憶は脳の中の別々の場所に格納されているから起こる現象である。
しかし、娘のことを思い浮かべながら妻の名前を呼んでしまうことはあっても、総理大臣の名前で呼んでしまうことは決してない。
人は名前や呼び名を記憶する時、グループ分けをして格納する。例えば、愛おしく大切なグループである『お母さん』や『娘』、大好きなワンちゃんの名前は一緒の部屋にいるのである。家族は必ず一緒の部屋だというルールがある訳ではなく、本人の心が決めていると言って良い。で、呼び起こす時につい同じ部屋にいる別の名前を持ってきてしまう。生活する上で心をほんわかさせてくれる、可愛らしい構造だと思う。
単細胞生物であるミドリムシは光を感知し、ゾウリムシは重力を完治する。そしてほとんどの単細胞生物が空気や液体の振動を感じ、味蕾の様なタンパク質受容体も存在する。これらが私たちの視覚や聴覚、触覚、味覚へと発達していく。
生きるために必要な情報を感じる器官が発達する一方で脳も肥大化し、情報処理の方法も細分化していく。その中に、感覚器官からの情報ではない、名前の格納処理がある。
草原で匂いと気配を感じ、目で見て逃げる。生存に関わる視覚、聴覚、触覚、味覚とは異なり、名前、呼び名と言われる『概念』を記憶するのは、ある程度ルーズで構わない。森の中で遠くに熊を見かけて『虎がいるから逃げる』と呼び名を間違っても、逃げる事には違いなく生存確率には影響しないのである。
だから、口から発した名前が違ったからと言って、恥ずかしくも何ともないのである。
【まとめ】
名前や呼び名には、心が決めた住所がある。